尖塔のみえる町で
「ごめんなさい。なんのことかわからないんだけど。私、すごく忘れっぽいから」
と言った。
私たちはそれから長い長い間、力いっぱい抱き合った。
どこか遠いところで教会の鐘が鳴っているような気がした……。
もうすぐ飛行機は台北に着く。窓の外は見わたす限り濃いブルーが広がっている。銀色に輝く雲の下では、台北での日常が私を待ちうけているはずだ。
これまで私は毎日仕事のことばかり考えて生きてきたような気がする。それはスクールカウンセラーという仕事にやりがいを見いだしていたからではあったが、いまの私は正直すべてを捨ててでも、この天空を疾駆して彼のもとへ飛んでいきたかった。
でも、それができないことは自分がいちばんよく知っている。私には台北でやらなくちゃいけないことが山ほどある。病気の父や生徒たちが私を必要としているのだ。
これから、私も彼もつらい苦しい時を過ごさなくてはならないだろう。会いたいのに会えない。話がしたいのにできない。それに耐えなくてはならない。飛行機のなかで、私はいっそ、彼に出会わなければよかったとさえ思ったりもした。
人を好きになる、愛するとは一体何なのだろう。いっそのこと、そんな感情が存在しなければ、こんなにつらい思いに苦しめられることもないのに。そう本気で考えもした。
でも。私が彼を愛しているというこのどうすることもできない確かな思いは、私がこの世に今まさに生きていることの何よりの証にちがいないのだ。それは、たった一輪の花がただ黙ってそこに咲いているのと同じように、それだけで一点のけがれもない、美しく貴いことにちがいないのだ。
私たちは、きっとまた会える。神さまは私にすてきな宝石を与えてくださったのだから、それを大切にして、より美しいものになるよう磨きをかけなくては。
別れの朝、泣きじゃくる私に約束してくれたように、彼が台北まで会いにきてくれるのが先か、それとも私がワルシャワを訪れるのが先か、いまはまだわからない。でも、いつか、必ず、また会える。
それを強く信じて、私は祈る。その日が一日でも早くくることを。
そして、どうすれば弁護士をめざす彼の力になれるのか。それを私は台北でじっくり考えてみようと思う。