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尖塔のみえる町で

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日本でバーテンをしていたハヤチはウイスキーの勉強のためスコットランドに渡り、その後ロンドンで格安の語学学校に通いながら吉川さんのもとでバイトをしてワイン学校にも通っている。一見遊び人風に見えるが、実はまじめな勉強家だ。
「マツダはなんで皿洗いなんかやってんの?」
 自分で吐き出した煙に顔をしかめながらハヤチが言った。
「けっこう気に入ってるんだ」
「みんなたいがい三日でやめるよ。安いのに大変で割に合わないってさ」
「金が欲しくてやってるわけじゃない」
「じゃあ、皿洗いの勉強?」
「そう……なわけないでしょ」
 おれはハヤチの肩を小突いた。「最近気がついた。お客さんはだーれもおれのことなんか知らない。こんなドジでかっこ悪いやつが必死で汗かいて、洗剤の泡なんかほっぺたにつけたりして地下の狭い厨房であたふたやってる。怒鳴られたり、滑って転びそうになったり、包丁で指切っちゃったり、まあいろいろやってることなんかなーんにも知らない。ただ好きなように飲んで食って楽しんで帰っていく。そう思うと妙に楽しいんだよ」
 ハヤチはふーっと大きく息を吐きだした。
「だったら、なおさらおれの代わりやってくれよ」
「無理だろ。ハヤチみたいになんでもできないよ、おれは」
「おれだって最初からできたわけじゃない。吉川さんに全部一から教えてもらったんだ」
「素質ってもんがあるでしょうが。センスっていうか……料理には必要でしょ」
 ハヤチはにやりとして足元に落とした吸い殻をふみつぶした。
「そんなの邪魔なだけだよ。吉川さんの言われたとおりにやってればいい。マツダにはそれができると吉川さんは思ってる」
「それって、喜ぶべきことなのか……」
「当たり前だろ。あの店はマツダを必要としている。やるしかないだろ」
 なんだかハヤチの思惑どおりに後釜に据えられようとしている気がしたが、もっと料理のことを知ることができ、それで少しでも滞在費が稼げるのなら悪くはない話に思えた。
「たぶんもう二度とこういう時間は来ない」
 ハヤチは鉄柵から離れてジーンズのポケットに手を突っ込んだ。「いれるだけここにいればいい」
「なんか……えらそうだな」
「おれはそういうやつなんだ」
「だろうな」
 おれは笑った。なんだかいつまでも笑っていられそうだった。
 ハヤチは「じゃっ」と言って軽く手を挙げると、吉川さんが去ったのとは反対の方角へ歩いていった。
 黒塗りのオースチンが放つライトがおれの足元を一瞬、真っ白に照らし出した。黒人の背の高い男と白人の赤毛の少女が笑い声を上げながら、ふらふらと横を通り過ぎていく。香水のきついにおいが鼻に痛い。
 おれにも帰るべき場所があった。バスに乗ってテムズ河を越え、緑に囲まれたアリソンの家に帰るのだ。部屋にはきっとポットに入った紅茶が用意してくれてあるだろう。それを飲みながら、握り飯や餃子を食べられる幸せ。
 ロンドンでも、トーキョーでも、二度とはめぐってくることのない今だけの時間を、誰もが生きているにちがいない。

「イエーイ!!」
 ソファから立ち上がったアリソンが拳をふり上げて歓喜の声をあげた。
 テレビの画面には、逆転のゴールを決めたスコットランドの選手が叫びながらジャンプする姿が映し出される。スタンドで大きく揺れているのは青字に斜め十字のスコットランドの国旗だ。
 アリソンは小さな犬のペッパーを抱き上げて、
「あんたもスコットランドの子でしょう!」
と、その顔を見つめながら言う。
ペッパーの首にはしっかりスコットランドの国旗のバンダナが巻かれている。
イングランド対スコットランドのサッカーとなると、スコットランドで生まれ育ったアリソンは若者のように興奮してしまう。
 ケンブリッジにいたときは、下宿先の若い夫婦は逆にイングランドがスコットランドに負けることなどあってはならないと言わんばかりの態度でサッカーを見ていた。選手の顔を見るのも嫌だと吐き捨てるように言ったことさえある。
 ロンドンに来る前、おれが留守のときにアリソンから電話があったと告げたケンブリッジ育ちの奥さんは含み笑いをしながらこう言った。
「あなたの新しい下宿の奥さん、エイリアンよ。イングランド人じゃない」
 一抹の不安を抱きつつアリソン家に引っ越したおれは、彼女の出身を知って納得した。確かにケンブリッジの英語とはアクセントが明らかに異なっているが、おれのひどい英語からしたら何ほどの違いがあろうって感じ。
 この家に長く住んでいた日本人のカズヨさんから聞いた話では、アリソンの亡き夫はロンドンっ子だったため、スコットランド人というだけで両親から結婚を反対され、結婚した後も親戚や近所の人から冷たく扱われることもあったという。
 つまるところ、自分(自分たち)はお前(お前たち)より優秀だって思い込むところから悲劇が始まってるんじゃないか。おれもケンブリッジでは英語がうまく通じなくて店員に嘲笑されたり、無視されたりしたことがある。街ですれ違いざま「日本に帰れ!」って怒声を浴びせられたクラスメイトもいた。
 小さな田舎町のケンブリッジより、多くの人種が入り混じった雑多な都会のロンドンのほうが言葉や宗教、肌の色の違いなどだけで居心地の悪さを感じることは少ないと思うけれど、どこにいても人はなんとかして人の上に立って生きていこうとしてしまう。自分はそんな卑劣な人間じゃないと言い切る自信が、おれにはない。人に踏みつぶされるつらさ、くやしさを味わわされていてさえ、そうなのだ。それがまたなんとも悲しい。
「スコットランドに勝利を」
 アリソンに向かって言うと、
「サンキュー。イエーイ!!」
と声を張り上げ、ウインクしてみせた。

部屋のドアを開けたら正面のベッドに上半身裸の金髪の男が寝そべっていたので驚いた。
「ハイ、リョウ」
 相手が言うのと同時に、きょうから二週間、カミルがおれの部屋で過ごすことを思い出した。アリソンが間違えて彼がポーランドに帰る前にロシア人の女子学生を受け入れてしまい、部屋が足りなくなってしまったのだ。
 もともとおれの部屋は広くベッドは二つあるので同室するのはかまわないのだが、暑いとはいえ、モデルのような容姿の彼に半裸でいられると、なんとなく落ち着かない。
 カミルは読んでいた手紙を封筒にしまった。にやけた顔をしているので、
「ラブレターでももらったのかい?」
と訊いたら、
「そう。クラスメイトの台湾の子だよ」
と臆面もなく答える。
「君なら毎日違う女の子からもらってるんじゃない?」
「ノー、ノー、そんなわけないだろう」
 まじめに手をふって否定するところが、まあカミルの性格のよさではある。
「でも彼女はスペシャルだよ。目が、こう、黒くて、背もすごく小さい。同い年とは思えないくらいかわいいんだ」
「日本人だってみんなそんな感じだよ」
「ノー、ノー。彼女は台湾人だから。中国人でも、日本人でもないよ」
 カミルは碧い瞳の前で人差し指を左右にふる。「ところで、リョウにもラブレターが来てるよ」
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO