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尖塔のみえる町で

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 言われて机の上を見たら、ケンブリッジのマリアから届いた手紙があった。その場で封を切ると、来週スペインに帰るので、週末ロンドンで会えないかと書いてあった。
 マリアはケンブリッジでは一番気が合った留学生だ。謙虚で物静かなところがなんだか日本人みたいで、笑いのセンスなんかも自分に近いものがあって愉快だった。おっちょこちょいな性格がまた愛すべきところで、わざわざ手紙を出したのはアリソン家の電話番号を知らせたおれの手紙を紛失してしまったかららしかった。 
 おれはスローンスクエアでマリアに日本料理を食べさせてあげることを思いついた。吉川さんがつくる店の正式なメニューはまだ食べたことがなかった。
「カミル、君は天ぷら、刺身を食べたことがあるかい?」
「……テンプ……サーシ……?」
 カミルは不思議なものを見るように目を細めて首をかしげた。

 小さな入り江のビーチには地元の人と思しき家族連れやカップルが数えるほどしかおらず、波の音がいつまでも単調にくり返している。
 おれはパラソルの下でデッキチェアに掛けて、絵はがきにペンを走らせた。
船でドーバー海峡を渡り、ドイツ、スイス、イタリアでは学校で知り合った留学生のもとを訪ね、街を案内してもらったり、家に泊めてもらったりしたこと。チェコではプラハの古き美しさに、ヴェネツィアでは気品ある優雅さに魅了されたことなどを思うままつづった。
 白い砂浜を洗う透明な波は真夏の陽光をあびて輝き、はるか遠くまで深く濃い青々とした海原が広がっている。ときおり光の中を、低く飛ぶカモメの黒い影が移動していった。
 あすには再び船でイオニア海をイタリアへと渡り、スペインのマドリードをめぐってからパリ経由でロンドンに戻る予定だと記して、宛名を書いた。
『松田優次様』
 そう書いて、ふと親父に手紙を出すのはたぶんこれが生まれて初めてだろうと思い当たった。
 絵はがきを裏返すと、目の前の海に負けないくらい美しく真っ青な地中海を背に、白い壁に座った一匹の猫がこちらをふり返っている──。
 どうだ、うらやましいだろう。おれは今、ギリシャの名前も知らないこんな小さな島まで来ちゃったよ。三十年前、親父もケンブリッジを出て海を渡っておけばよかったのに。今ごろくやしがっても、もうこんな時間はやって来ないのだよ。
 おれは立ち上がるとパラソルの影から熱い陽射しの下に出た。両腕を大きく伸ばし、潮の香りを胸の奥深くまで思いきり吸い込む。足の裏の焼けるような熱さに堪らず、おれはあわてて海に駆けた。
 波打ち際でお父さんと遊んでいた幼い男の子がはね上げた水しぶきが飛んできて顔にかかった。思わず反射的に波をすくって男の子にかけると、大きな丸い目を閉じて声をあげて笑った。
 お父さんが何か言ったとたん、男の子は両手をめちゃくちゃにふり回すようにして逆襲してきたので、おれは大げさに悲鳴を上げて砂浜へと逃げだした。お父さんと男の子はこっちを見て楽しそうに笑っている。
 おれもつられて笑った。目の前が、ただまぶしかった。光が、目の前からすべての影を追い払ってしまっていた。
 マドリードに行くんだ。
 まだ知らない町の景色を、おれはうまく思い描くことができなかった。ただマリアのやさしい笑顔だけを思い浮かべて、おれは熱い砂の上をもう一度海に向かって走り出していた。
                                       〈了〉


 
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO