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尖塔のみえる町で

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7 トーキョーから・二十歳・リョウ 七月

  

 バイトに出かける時間になり階下に下りていくと、キッチンのテーブルで何か書きものをしているアリソンの後ろ姿が見えた。
「じゃあまた」とひと言だけ残して出ようとしたら、「サンドイッチを持ってけ!」としわがれた叫び声が飛んできた。
 夜のバイトに出るときアリソンは夕食の代わりに手製のサンドイッチを持たせてくれる。ぼそぼそしたイギリスパンにハムやらチーズやらをいっぱい詰め込んだ分厚いやつだ。
 こないだ厨房で料理の下ごしらえを始める前にそいつをほお張っていたら、「ばあちゃんの愛情だねえ」とハヤチにうらやましがられた。ロンドンでの一人暮らしが長い彼は、いつもクールで感情をあまり表に出さないが、実はけっこうさみしがり屋だったりもする。
 きょうはさすがにその愛情もどこかへ消えてしまったろうと思っていたが、リビングを通って奥にあるダイニングテーブルの上にはいつものようにラップにくるまれたでっかいサンドイッチが置いてあった。
 キッチンのほうに目をやると、こっちを見ていたアリソンは頬をゆるめた。おれは心底ほっとして、うんと感情をこめて礼を言ってから家を出た。
 今朝、朝帰りしたときのアリソンの怒りようは半端じゃなかった。
「あんた連絡もしないでどこほっつき歩いてたんだい! ええ!? こっちはなんかのトラブルに巻き込まれたんじゃないかって心配で眠れやしなかった。今か今かって帰ってくるの待ってて、とうとう朝だ。ええ!? ポリスに連絡しちまうとこだったんだから。言い訳なんか聞きたくもない。もう、さっさと行っちまいな!」 
 朝の陽光に照らされた庭の草花にホースで水をまきながら、アリソンは大量のつばを飛ばしつつ(たぶん)、声を張り上げてまくしたてた。上背のある巨体を左右に揺らしながら。
 おれはしばし呆然と立ち尽くしていたが、自分にも水を浴びせられそうな殺気を感じて自室へ退散した。
 クラスメイトのカテサラがタイに帰国するためヤマグチのフラットでお別れパーティーを開き、すっかり長居してしまったのちトラファルガー広場で乗った深夜バスで寝込んでしまった。気がついたときには、あふれ返っていた乗客は見事におれ一人になっており、バスは猛スピードで見知らぬ街を走り続けている。なんだか異常な気配。やがて車内灯がばちばちと点滅。強制的に降ろされたところはバス停なんかじゃなく、ごみだらけの汚い通り。運転手は駅なんか近くにないよとしか答えてくれないし、去りゆくバスを見送って途方に暮れた。ここはどこ? 私はだれかはわかりますけどって状態。朝の五時、すっかり明るいけど、だーれもいない。
 すこし歩いたところにガソリンスタンドがあった。どう見てもインド系の兄ちゃん店員二人に事情を説明してワンズワースに帰りたいって言ったら、あっさり「もうすぐ仕事終わるから地下鉄の駅まで送ってあげるよ」だって。おお、なんと親切な! インド人万歳! こういうとき妙にアジア人どうしの親近感をおぼえてしまう。スタンドに併設された店でジュースとパンを買っただけじゃ、お礼には足りなかったかな。
 駅まで送ってくれた車の中で、二人は夜勤明けのせいか饒舌だった。知り合いに横浜に行ったやつがいるとかなんとか言って、なんか勝手に盛り上がっていた。インド系の抑揚のきつい巻き舌はなかなか手強い。半分も理解できなかった。
 恩人らと別れ地下鉄に乗る前に、駅でアリソンに電話してみたが出なかったので、今から帰るとメッセージを残しておいたのだが、実際に家にたどり着いたのはさらに一時間近くもたってからだった。
 そんな間抜けな情けない一夜のせいで、おれはアリソンとの関係が目の前でまさに音をたてて崩れ去っていくような恐怖を味わった。ケンブリッジからロンドンのこの家に越してきて二か月あまり。せっかく築きあげた信頼関係に一瞬にして強烈な亀裂が生じたのだ。
年寄りをあんなに怒らせたら発作でも起こして死んでしまうんじゃないか。
 部屋のベッドに転がって、おれは本気でそんなことを心配した。しばらくして興奮が冷めてから素直に謝れば許してくれるだろうというのが結論で、とりあえずそっとバイトに行ってしまおうと考えていたのだった。

 スローンスクエアの裏通りにある日本料理屋。板前の吉川さんとその奥さんが営むこぢんまりとした落ち着いた店だ。シティにある日系企業向けの仕出し弁当もつくっており、けっこう忙しい。おれはその店の地下にある厨房で、吉川さんが使ったなべやボウルなどの洗いものをするかたわら、揚げ物に衣をつけたり、大根をすりおろしたり、食材を離れた冷蔵庫から取り出してきて吉川さんに手渡したり、あるいは出来上がった料理を盛り付けるための皿を素早く並べ、それをリフトに載せて上階の店にいる奥さんのもとに送ったり……と、とにかく吉川さんがスムーズに料理をして最高の状態でそれをお客さんに提供するための裏方仕事をなんでもこなさなくてはならないのがおれの役目だった。
 ハヤチは器用で頭の回転もよく、吉川さんの代わりも務められるくらい実力があり、吉川さんは全幅の信頼を置いているようだったが、おれときたら覚えは悪いし、要領も悪い。顔はそう悪くはないと思うが(それでもハヤチには勝てないが)、接客のない地下厨房だからなんの役にも立たない。きょうもしょうゆを天つゆと間違えて皿に入れて上階に送ってしまい、気性の荒い奥さんから「バカヤロー!」とリフトを通して罵声を浴びせられてしまう始末。
 十一時過ぎ、最後まで残っていた日本人のビジネスマンたちが帰ったらすぐに残ったご飯でおにぎりをつくり、鳥の唐揚げや餃子を包む。厨房全体にモップをかけ戸締りをすると、吉川さんとハヤチに続いて地下廊を歩き、階段を上って地上に出る。目の前の通りをダブルデッカーがエンジンを唸らせて走りすぎていく。
 吉川さんはおもむろにズボンのポケットから取り出したポンド札をおれの手に押しつけるようにして渡した。
「ごくろうさん」
 またポケットに両手を突っ込んで、吉川さんはさっさと歩いていってしまう。店の裏に停めてある車でハムステッドにある自宅に帰るのだ。十代で単身ロンドンに渡り、もう二十年以上この街で暮らしているらしい。
 手のひらの中のポンド紙幣。一週間分の報酬、二十ポンド札が四枚ある。しわくちゃになったクイーンの顔が泣いているように見えた。
「マツダ、おまえいつまでロンドンにいる?」
 通りの黒い鉄柵にもたれかかったハヤチが煙草に火をつけながら言った。
「さあ、クリスマスまでは金がもたないだろうな」
 大学をやめコピー機工場のバイトで日本を脱出するための金をためてきたおれには帰ってもすることはないし、正直できるだけ長くロンドンにいたかった。英語の勉強のためではなく、ただ純粋に異国で知らない国の学生たちと過ごせることが新鮮で楽しかった。
「じゃあ、もっと安い学校に移って、おれの代わりやってくれよ」
「ハヤチの代わり?」
「そう。おれ、フランス行ってくるから。それで日本に帰る」
「フランス?」
「いろんな土地でワイン飲んでくる」
「ワインの勉強か。ハヤチはいいな、ちゃんと目的があって」
 おれはハヤチの隣で鉄柵にひょいっと腰かけた。 
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO