尖塔のみえる町で
戦いに行った以上、生きて帰れないかもしれないことくらいもちろんわかってはいた。しかし、彼は銃弾に倒れたのではない。生きて帰れるはずだったのに。日本人はひどい。彼を死に追いやったのは日本人だ。
その後、私は当時、マットと同じように日本軍の捕虜となった同胞の体験談を聞く機会を幾度か得ることができた。その中で、残忍な日本軍にも同胞たちに温情を示す人のいたことも知った。恋人の写真を見せて、お互い故国へ帰って恋人に再会しようじゃないかと、病気の身を案じ、励ましてくれた日本人の話をする元軍人もいた。
それでも、日本人を憎む私の気持ちは大きく変わることはなかった。だって、マットは死んでしまったのだ。たとえ戦地でいかに地獄の苦しみを味わったといえども、生きて故郷の地を踏み、愛する人に再会できたなら、そして一緒に新しい人生を歩むことができたなら、もうそれ以上、誰を恨み、誰を憎み続ける必要があろう。つらく苦しい過去など、すべて忘れてしまえばいいだけではないか。
私のもとにはマットは帰ってはこなかったのだ。彼は私がいくら歳を重ねようが、永遠に二十歳の青年のままなのだ。
私は愛するマットにいったい何をしてやれたというのだろう。彼が死の恐怖におののきながら、汗と埃にまみれ、銃を手に敵に向かい、そしてまた、囚われの身となって、おぞましい穢れた土地を引きずりまわされ、病に苦しみ悶えているとき、私はこののどかな英国の田舎町で、いったい何をしていたのだろう。教会で祈りをささげることしかできなかったというのだろうか。本当に彼を愛していたのなら、私はどうにかして、彼をここへ、安らぐことのできるこの地へ、連れて帰ってやることができたはずじゃなかったのか。
生きながらえて、この歳になった今でも、私は本気でまだそう思うのだ。彼と結婚し、ふたりで農場を耕し、子供を育て、そうやって静かに平安な一生を送ることがどうして贅沢な夢などといえようか。しかし、それを主はお与えにならなかった。
マットが還らぬ人となり、その後私に結婚を申し込んできたのはただ一人、彼の幼なじみのトムだけだったが、それを受け入れる気持ちは微塵もなかった。トムが善良で心やさしい青年であることはよく知っていた。しかし当たり前だが、それだけでは私が彼と結婚できる理由にはならなかった。
トムには私の良き兄のような存在のままでいてほしかった。実際、彼には心から感謝している。彼の思いやりのある数々の言動が、私の生きる力になっていたことは疑いようのない事実なのだから。
トムがやがて私をあきらめて結婚した後も、奥さんやお嬢さんとも親しくつき合うことができたのは、生涯独り身で生きてきた私にとってとても幸せなことだった。ドナが亡くなって一人暮らしになったトムが、毎週、私のもとへやってきてディナーを共にしてくれることは本当にうれしい。
私は人生で何もかもを失ってしまったわけではなかった。主はちゃんと、この私にもお与えになってくだすったことを決して忘れてはならないと思う。
私が家の空き部屋を使って若者の世話をすることで、少しでも生活に張りを持たせようという試みは、半分はうまくいき、半分は重荷になった。毎日、学生のために食事を用意し洗濯をすることはボケ防止には有効だろう。元来私はよほど気の合う相手でない限り、そうたくさんはおしゃべりしないほうだが、それでも人なつこい学生がディナーの後、一緒にテレビを見たり、学校での出来事を話して聞かせてくれたりするのは愉快なことだった。
反面、イタリア人やブラジル人の学生で、毎晩遅くまで遊び歩き、夜中に帰宅してがたがたと物音をたて、シャワーを浴びたり、大声で歌をうたったり、部屋の中も散らかし放題、食事はほとんど食べ残し、なんて子もいて、これには早く滞在日程を終えて故国へ帰ってくれと願うばかりだった。
そして私が一つ懸念していたのが、日本人の学生が来ることだった。学校側に滞在者の国籍を希望することは不可能であり、オファーがあれば受けざるを得ない。学生の受け入れを始めて半年後、ついにそのときが訪れた。東京からユージという日本人男子学生が来ることになってしまったのだ。
ユージは驚いたことに、あろうことかマットを髣髴とさせた。顔つきや身体全体の雰囲気が彼によく似ているのだった。
ただユージの英語は発音がでたらめなこともあって、まるでしゃべりはじめの幼い子供を相手にしているような不思議な気分だった。
彼はいつも穏やかでにこにことしており、同じ日にモスクワからやってきたオーラにもやさしく声をかけているようだった。学校ではただひとりのロシア人であるらしいオーラのことを気遣って、放課後は共に宿題をし、休日も買い物につき合ってあげているようだった。
ユージは夜、パブに出かけてもそう遅く帰宅することはなく、部屋も常にきちんと片づいていて、大きな物音をたてることもなかった。私がつくる料理はいつもきれいに平らげてくれたし(シェパーズパイは特によく食べてくれた)、毎週水曜日のスイミングの日には、頼んだわけでもないのに留守の間に食器をちゃんと洗っておいてくれた。
これが日本人なのか。私はなんだか目が覚める思いだった。これが、私が半世紀もの間、勝手に自分の中で憎しみを抱き続けてきた日本人というものなのだろうか。
ケンブリッジは世界中から学生が集まってくる町だ。これまでも日本人(確信はないがたぶんそうだろう)を見かけたことはもちろんある。しかし、直接言葉を交わしたのはユージが初めてであった。私は、日本人というものをまったく知りはしなかったのだ。日本人もまた私たちと同じ人間であるという至極当たり前のことを、考えてみたことすらなかったのだ。
私はユージにあなたのおじいさんはどんな人だったのか、訊いてみたい衝動に駆られたことがある。でも、思いとどまった。私は生まれて初めて、やっとこの歳になって、本当に日本人というものを知ったのだ。ユージという礼儀正しい青年が、しかもマットによく似た青年が、この広い世界の中で、ほかの誰でもない、私の前に現れたのだ。そこに主の働きがないとどうしていえようか。
私は、自分がどうすべきか悟らなければならなかった。
オーラが帰国し、ユージと二人きりの生活を送っていた春のとても暖かい日の夕方だった。いつものように郵便局の仕事から帰宅し、キッチンでディナーの支度をしていたとき、モップに足をとられ私は転んだ。その直後、突然右足から血がシャワーのように噴き出し始めた。以前からできていた静脈瘤が破れたのだ。痛みで起き上がることはできず、私は匍匐前進のような格好で必死に玄関にある電話機に向かって進んでいった。やっとのことでキッチンから這い出そうとした辺りで、急に目の前が暗くなり、意識が遠のくのがわかった。このまま死んでしまうのだろうか。微かにどこかで私の名を呼ぶ声を聞いたような気がしたが、もうそれに応える気力が出てこなかった。