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尖塔のみえる町で

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 そのときちょうど学校から帰ってきたユージが私を発見し、救急車を呼んでくれなかったら、私は本当にそのまま死んでいたろうと思う。病院ですぐに治療を受けた私は、入院することもなく家に帰された。ユージはとても不安そうだったが、医者に言われたとおり、小さなバケツにお湯をためて、私の足をゆっくり温めてくれた。言葉ではうまく言い表せないくらい気持ちがよかった。
 心配して来てくれたレイチェルはすっかり感心した様子で、ユージのことを何度も素晴らしい青年だと褒めそやしていた。ユージは照れ笑いを浮かべながら、黙々と私の足をやさしくさすってくれていた。
 その晩、私はレイチェルとユージに付き添われながら安心して眠りについた。そして確かに私は夢を見たのだ。マットが、私に向かって笑いかけている夢を。二十歳のままの若いマットが、ただいつまでも私に笑いかけている夢を。
 そんな夢を私はこれまでにも何度も見てきた。目が覚めたとき私は深いさみしさと、自分だけがこんなにも年老いてしまったことを悔いる気持ちに苦しむのが常だった。 
 ところがその日は、目を覚ました私はとても温かい気持ちに包まれているのを強く感じた。もう、誰を恨んだり憎んだり、自分自身を責めたりする必要などない。マットはもう決して苦しんでなどいない。私と一緒に笑いたいだけなのだ。そんな思いが私のうちに湧き上がってきていたのだった。

 夏になるとスイスやスペインやポーランドなどから、次々に学生がやってきて、私の家はにぎやかになった。ユージはすぐに彼らと仲良くなって、パブに飲みに行ったり、週末はバス旅行に出かけたりして、ここでの毎日を楽しんでいるようだった。 
 私はそんな姿を見て幸福だった。まるで、あのマットが思い出の世界から飛び出してきて、この現実を、今の世界をいきいきと飛び回っているのではないかと思った。
 夏が去り、秋が深まると、私はまたユージと二人きりの生活に戻ることになった。彼の話す英語は格段に上達して、何度も訊き返したり、言い直したりして会話することももうなかった。ディナーの後、リビングでテレビを見ながら繕い物や編み物をしていると、彼はよくお茶を淹れてくれた。寒い夜に自分のために熱いお茶をつくってくれる人のいるありがたさ。私は毎晩、主に感謝した。
 ユージはクリスマスの後、日本に帰ることになっていた。彼がいなくなることを私は考えないように努めた。
 クリスマス当日は例年のようにトムも呼んで、三人でターキーやワインを載せたテーブルを囲んだ。ターキーは初めてだというユージは、頬をふくらませておいしそうに食べてくれた。日本ではなぜかイブにローストチキンを食べるらしい。
 私はトムには手袋、ユージにはマフラーを贈った。マフラーはユージに気づかれないようこっそり編んだものだ。トムはマフラーのほうを欲しがって、おれのと取り換えてくれとユージに迫ったが、トムの手は大きすぎて合わないからとあっさり断られていた。ユージからは美しいスカーフ、トムからはチョコとクッキーの詰め合わせが私へのプレゼントだった。
 私はスカーフを、ユージはマフラーをそれぞれ首に巻き、左利きのトムは右手にだけ手袋をはめて、三人でソファに掛けてクッキーやチョコを食べ、クイーンのスピーチも聞いた。本当にあたたかなクリスマスだった。
 翌日、ユージが日本へ発つ朝は珍しく太陽が灰色の雲の間から顔をのぞかせた。
「長い間いろいろありがとうございました。お元気で。またきっと遊びに来ます」
 私は思わずユージを抱きしめた。
「いつでも帰っていらっしゃい。いやというほどシェパーズパイを食べさせてあげるからね」
 ユージは笑顔を残してくるりと向きを変えると、待っているタクシーに乗り込んだ。すぐに発進して、彼の姿はあっという間に視界から消えていった。
 弱々しい陽の光の中に私は取り残された。風が頬に痛い。
「さあ、お茶にしよう」
 私は言った。
 熱いお茶さえあれば、きょうもまた一日生きていける。
 誰かが言ったせりふなのか、それとも自分で思いついただけなのか。私にはもうよくわからなくなっていた。
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO