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尖塔のみえる町で

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6 ケンブリッジで・七十四歳・アン 十二月



 あの日、玄関のチャイムが鳴る前から、なぜだか妙な胸騒ぎがしていたことを、私は今でもはっきりと思い出す。ドアを開けた私は、口を半開きにしたまま目を丸くして、ただ黙ってそこに立っている日本人を見つめるばかりだった。
 そう、彼は日本人であるはずだった。ユージという名の日本人。
 少しぎこちない笑顔で私を見ているユージが何か言ったことはわかったが、私にはその声が聞こえてはいなかった。思わず本気で「マットなの?」と確かめてしまうところだった。
「カッスルさんですよね?」
 我に返り、目の前の青年が困惑した表情を浮かべていることにやっと気がついた私は、あわてて「いらっしゃい」と言って中に入るよう彼をうながした。
 マットは純粋な英国人であって、日本人に似ているはずなどなかった。一度だってそんな愚かしい考えを抱いたことはない。この日本人がどこかで英国人の血を引いていて、マットに似ているというのだろうか。私は混乱した。
 確かに、ユージの顔立ちは、私の知る日本人の、例のひらべったくて目が小さくて、鼻の低い黄色い顔とは違っていた。彫りが深くて鼻筋が通っているうえ、力強い光を放つ瞳が私をまっすぐにとらえていた。
 私は動揺した心のうちを覚られぬよう階段を上がり、そそくさと彼を部屋に案内した。一息ついたらお茶を飲みに下りてくるように言って部屋を出たところで、また玄関のチャイムが鳴った。その日はもう一人、モスクワから女の子がやってくることになっていたのだった。
 しまった! 部屋を間違えた。
 私は大きな舌打ちをした。
 日本人なんて、あの寒々しい狭い部屋でたくさんだったのに。がたつく小さな机で、わずかな脳みそをひりひり言わせながら、我が偉大なる大英帝国の栄えある言葉の恩恵に浴さんと勉強に励むがいいのだ。たとえぎしぎし音が鳴っても、ベッドがあるだけありがたいというものだ。そもそも日本人など家の中に枯れ草を敷いて、その上で平気で眠れる連中じゃなかったかしら。
 モスクワから来る、きっとかわいい女の子のためにベッドカバーを花柄にして、絨毯だってわざわざ掃除機をかけてきれいにしておいたというのに、私の頭はよっぽどどうかしていたに違いない。

 きれいな細かい花の刺繍がほどこされたピンクのスカーフ。首にそっと掛け、手で撫ぜてみると、シルクのなめらかな感触がとてもやさしい。
 こんな素敵な贈り物を誰かからもらったのは、いったい何年ぶりだろう。ジルは死んでしまったし、メアリはベッドから起き上がれない。トムは相変わらず元気だけれど、プレゼントはたいていお菓子。自分だけ太るのは癪だから、そうやって甘いもので私まで巻き込む作戦かもしれない。
 ユージはもうここにはいない。二月、雪の降るまだ寒い日にやってきて、ひと夏をここで過ごし、ふたたび雪のちらつく冬の入り口で、とうとう日本に帰っていった。
 まさか彼がこんな美しいスカーフを私のために選んでくれるなんて。カードには私がよくつくったシェパーズパイがとてもおいしかったなんて書いてあった。料理を褒められた経験などほとんどないだけに(トムだって記憶する限り、そんな言葉を口にしたことはないはず)、私は素直にうれしかった。私は半世紀もの間、ほとんど毎日、自分一人だけのためにしか料理をしてこなかったのだから。
 マットには私の手料理を食べさせてあげることもできなかった。もしも、あんな戦争などなくて、ふたりで暮らすことがかなっていたのなら、マットもひょっとしたら私のシェパーズパイを喜んで食べてくれたのだろうか。
 こんな歳になってまで、そんなことを考えている私は、トムが言うようにやっぱりまともじゃないのかもしれない。でもそれだって別にかまわないじゃないの。何を恥じ入ることがあろう。私が生涯、心から愛せるのは昔も今も、マットただ一人。彼しかいないのだ。この思いは、ほかの誰であっても決して傷つけることのできない、私の心の内にある神聖な領域だということを、トムだってちゃんとわかっているだろうに。
 あの夏の夜、私はマットとふたり、草むらの上に寝転んで、流れ星を眺めていた。宇宙にはいったいどれほどの数の星が存在するのだろうか。燦然と輝く無数の星たちが、私たちを大きく包むように天から見下ろしている。
 やがて自分の身体が宙に浮き、その星たちに吸い込まれていきそうな危うい、それでいて心地よい感覚に襲われたとき、ひときわ大きな光の玉がひとすじの尾を長くひいて、私の視界の右から左へと駆け抜けていった。あの広い夜空に、あれだけの光を放ちながら走りすぎていったのに、何も音がしないことが不思議でならなかった。
 子供のころ、同じように父と寝そべって星を眺めているとき訊いてみたことがある。
「お星さまはなんでいつも黙っているの?」
 父は確かこう言った。
「いつだって星は語りかけているよ。心を落ち着けて、それをちゃんと聞いてあげなくちゃね」
 まだ子供だった私は、果たしてその声を聞くことができたのだろうか。それはどんな言葉だったのだろうか。もう覚えていない。
 私はマットに父との思い出を話して聞かせようとしていた。そのときマットがつないでいた手に、ふいに力を込めたのがわかった。何か大事なことを話そうとしているようだったので、私は自分から話をするのをあきらめた。
 彼はいつもの低くてよく通る声で、自分もいよいよ軍隊に入って偉大なる帝国の正義のために戦うことになったと私に告げた。入隊が決まったのだと。
 彼の友人たちが次々に志願兵となっていることは知っていたし、近いうちにマットもそうなることはわかってはいた。戦争の時代だった。女が戦地でなんの役にも立たない以上、男が戦地へ出ていく勇気を、私は素直に称えるべきだった。帝国の正義を貫くための戦いを、主もお望みであるはずだった。
 それなのに、私は何も言葉を返すことができなかった。マットの分厚い手がすこし汗ばんでいるのがわかった。
 冷たい夜気にさらされているために、さっきまで背中に温かく感じられていた大地のやさしさが、急にうっとうしく思われた。
 こんな星の美しい夜に、どうしてマットは戦争に行くなんて言い出すんだろう。よりによって、なぜ今なのか。
 またひとつ、めまいのするような強い光が大きく弧を描いて、星の海の上を滑り落ちていった。
 私は彼の手をふりほどくと、牧草地をあてもなく走り出していた。自分はばかだ、なんてばかな女なんだろうと思いながら。
 小川のほとりの大きな木のたもとで、私はくずおれるようにしゃがみこんだ。胸が苦しかった。どこか遠くで牛が鳴いたような気がした。

 それからふた月ほどしてマットはシンガポールへと発ち、わずか四か月後には日本軍の捕虜となった。そしてビルマの鉄道工事の現場へ向かう途中、赤痢にかかり死んでしまった。
 彼と行動を共にしていたヘンリーが私にしてくれた話では、息を引き取る間際、マットは私に会いたかったとくり返していたそうだ。遠い異国の地で苦しみながら死んでいったマット。なぜ、なんのために、彼はそこで命を落とさなくてはならなかったのだろう。
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO