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白翁物語 その2

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「白翁にはするべきことがあるだろう」

「ある。それは言うとおりだ」

「出来ない理由も聞いたよ。最愛の奥さんを亡くしてから筆を折ったこともね」

「あれには苦労をかけた。俺がほっつき歩いて金にもならない画を描いておったから、旅館の女中やなにかをして、相当に苦労をかけた」

「白翁の絵は相手への思いをこめるそうだな」

「いかにも。その人にしか会わぬ絵よ。だから金にならん」

「あんたは、一番描かなくてはならない相手を描いてないんではないか?」
「美希ちゃんにはわかるんだな」

「どうして描けないのかもね」

「そう、物心ついてからともにあった硯をあれの棺に入れたのだ」

「白翁、その包みを開けてみな」
包みの中身は硯であった。
「白翁、あんたは描くべきだわ」

「こ、これはただの硯ではないな」

「ああ、私の知り合いの知り合いに宮城の雄勝硯の職人がいたんで彫ってもらったんだ」

「このような高価なものを」

「白翁の名に恥じぬような硯を彫ってくれといったらこうなっただけだ。高級な物になったのは私の責任ではないからな」

「しかし、美希ちゃんが手に入れられるような品ではないだろう。これは」

「ああ、値段のことなら気のいい主人が私の出世払いにしてくれたから、気にせず使ってくれ」

「いや、代金は俺が出そう」

「白翁、それを買ったのは私だ。そしてその硯に命を吹き込むように頼んでいるのも私だ。代金のことなんか言うな」

「絵が出来上がったらどうするつもりだね」

「そのときはこの3人で奥さんの墓に行こう」

「墓に供えるのか」

「墓前で燃やして奥さんのところに届けるんだよ」


美希が昼食の仕度に台所に立つと、自然2人は差向かいで残されることになった。

「あ、あのう」
遠慮がちに美由紀が聞いた。
「美希って、いつも白翁さんにあんな物言いをするんですか?」

「白翁は号だから、さん付けはしなくていいよ」

「はい」

「いつも美希ちゃんはああだよ」

「気を悪くなさったりしません?」

「友人には友人の礼と言うものがある。美希ちゃんはしっかりわきまえているよ」

「硯の事だって、相談もなしでしょ?」

「ああ、当然そんなことを言ったら拒否されるとわかっているだろうからね。でも、美希ちゃんには俺の心がわかるんだな。昔から人間嫌いで、野山が友だった。山水画が多いのはそういうことだけに過ぎない」

「美希も人間嫌いなのかしら?」

「同類はわかるものさ。俺は復員して結婚してからも家には居着かなかった。いつも日本全国を旅しては、画を描き、その地で世話になった者にくれてやった。借りを作るのが嫌いだったからな」

「そうなんですか」

「家に帰ると、妻は嫌な顔一つせずに、今回の旅の物語を聞かせてくださいまし、とねだるんだ。妻には土産話しか与えることは出来なかった」
「それで硯を?」

「すぐに妻のあとを追ってもよかったが、何かわからないがやり残している事があるような気がして、いままでだらだらと生きてきた。今日美希ちゃんに言われてそれが何であるのかはっきりわかった」

「それで、硯を・・・」

「そのあたりで売られている硯など、今まで手にする気にさえならなかった。どうしたわけかわからなかったが、この硯を見て納得した。いや、この硯によって白翁たるべき時がきたとわかった」

「それじゃあ、失礼じゃなかったんですね」

「ああ、美希ちゃんが喪服で来たのも、今までの自分に訣別しろという謎かけさ」

「そうだったんですか」

「それより、美由紀さんといったな。静岡県や桜海老の話を聞かせてくれんかね?」


いえ、私はあまりよく浜松のことは知らないんです。
生まれは桜ヶ丘総合病院の近くで、前は清水市といっていました。今は静岡市になっちゃいましたけれど。
東にはすぐ三保の松原があって、天気のいい日は駿河湾の向こうに達磨山が見えたんですよ。
そこからずっと左のほうを見ると真っ白に化粧した富士山が見えるんです。
いいえ、そのあたりには雪は降りません、というか積もったのを記憶していないんです。
小学校までしかいませんでしたから。
桜海老ですか?
桜海老なら浜松よりも由比(ゆい)のほうが知られています。
というか、由比の方の特産じゃないんですか?
浜松はうなぎの方が有名ですから。

そうです。由比は由比正雪ゆかりの地で、富士川から蒲原のあたりまでみかん山が海に突き出ているような感じのところですから、由比から静岡にかけて段々平野になってくるって感じでしょうか。
はい、東海道五十三次にある雪の蒲原ってそこのことです。
でも、聞いた話だと雪なんぞ見たことがないなんて人もいるそうで、そのくらい温暖なところなんです。
本当にここみたいに寒くないですよ。伊豆の下田に行った日には、2月に水仙が満開だったりしますから。
あ、浜松でしたね。
浜松は浜名湖って大きな湖があるんですけれど、静岡から浜松に行く途中で牧の原って所を通るんです。すごいお茶畑ですよ。
私、昔お手伝いでお茶つみしたこともあるんです。
1本1本新芽を摘むんですけど、切りびくが一杯になる頃にはへとへとになっちゃうんです。昔から体力がないんですね、私って。
でも、お休みの日には金谷ってところからSLに乗れるんです。
はい。蒸気機関車です。本当に今でも走ってます。
あ、浜松の話でしたね
浜名湖の北のほうに三ケ日って言ってみかんで有名なところがあります。
ほかに有名なのは舘山寺温泉くらいかしら?
たしか動物園とかがあったような気がします。 
え? 高射砲の部隊ですか?
確かおばあさんの話しだと、日本軽金を守るように山に高射砲の陣地があったとかって聞いたことがあります。その高射砲っていうのがどういうものかは知りませんけど。
本当に同じ県なのに西部の事はよくわからないんです。ごめんなさい。


「美由紀、話中悪いが、天ぷらが揚がってきたんで運んでくれないか?私はちょっと手が離せないんだ」
台所から美希の声がした。

「あ、はい、ちょっと失礼します」

美由紀はソファーから立ち上がると美希のところへ足早に歩いた。

「美希ちゃんごめんね、手伝わなくて」

「あはは、ごめんねというのは私のほうだ。手が衣だらけになって、ちょっと手際が悪い。すまないが油きりに上げた奴から皿に盛って、そっちへ持っていってくれ」

「わかった。それだけでいいの?」

「全部揚げ終わる頃には汁も出来るよ。そうしたらまた頼むからな」

「わ、これ独活(うど)?」

「そそ、南の斜面に気の早い独活が出ていたから掘ってしまった」

「あ、これは桜海老ね」

「冷凍物だから美由紀の口に合うかどうかまでは保証しないぞ」

「美希ちゃんが作ったものを頂くのって初めてだから楽しみ」

「ああ、それは悪いことをした。実は主食の米はたくわえくんなんだ」

「たくわえくん?」

「あはは、わからなければいいよ。どちらにしろこんな電子釜で炊いたんじゃ、どんな米でも大して変わらないからな」

「ずいぶん楽しそうだな」

「わ、白翁、油が飛ぶから、そっちで待っててくれ」

作品名:白翁物語 その2 作家名:田子猫