白翁物語 その2
「え〜、だって私だけ」
「かまわぬよ」 老人が笑みを含んで言った。 「老人の話は長くてくどいものと相場が決まっている。普通の若者には退屈なだけ。遠慮をせずに足を崩すといい」
「はい、じゃあ、失礼して」
美由紀が足を崩したのを確認して、美希はじっと老人を見た。 やはり白翁より若く見える。しかし覇気がない。生きているのに飽きてしまったような感じにも見える。
「あなたも白翁と同じ82歳ですか?」
「82?ははぁ、またあいつさばを読んでやがるな」
「あ、やっぱり違うんだ」
「やっぱり?」
「あなたと同年兵なんでしょ?」
「そうさ、学校も一緒よ。老け込んだかい? あいつは」
「いいえ、老け込んではいません。たまに見せる覇気は同級生の男子よりも強いし、何か、2・3人分の人生を生きているような感じなんです」
「それは女の直感かい?」
「直感?そんなものかもしれません」
「こわいねぇ、当たってるよ、それ」 老人は肩をすくめた。自分がどういう直感で見られるのかが怖いのだな、と美希は思った。
あれはまだ学生の頃だ。
といってもお嬢さんがたよりも若い時分だ。 その日は朝から吹雪いておった。 その学校の配属将校は乃木将軍の信奉者とかで、何かとやかましい人だった。 その人が教練の時間に上等な画用紙を配った。 今までガリ版刷りのわら半紙しか見ていなかったから、驚いたね。 しかもその紙に自分の心を書け、と言うんだ。 みな途方にくれたさ。
だがな、山崎だけは違った。 さっさと墨をすると半時もかからずに書き終えて筆を置いた。 配属将校は山崎のところに来ると、にわかに顔色を変えたな。
それは秋の野を行く老人の絵だった。
配属将校は何故秋なのだと訊いた。 山崎は母方の生業が薬売りでございますと答えた。 配属将校はそうか、あきうど(作者注:薬売りの事・あきんどの語源)かと言い、この翁の絵には号を入れるとよい。あきうどならば、さしずめ白翁と言うところか、と言った。
それ以来山崎は何か物を書くたびに白翁と書いた。 なに、そこのところを詳しく?
秋と白の関係は知っているだろう。 春は青龍、夏は朱雀、秋は白虎、冬は玄武。
号を書かせたのはその絵をもらって持ち帰るためさ。 それだけ早成していたのだ。山崎の絵はな。
その時の絵? わからぬなぁ、配属将校は後にアラカン作戦(作者注:アキャブ飛行場の争奪戦・インパール作戦の支作戦とされた)で戦死したと言うし、家にあったとしても空襲で焼けてしまったかも知れぬ。 そんな物よりも山崎の友人だろう、描いてもらえばいいではないか? もっともそんなことを言い出しそうもないな、お嬢さんは。 女嫌いの山崎が友人にするくらいだ。とっくに描き始めているかも知れんが。
奥さんがいただろうって? あれは俺の妹だよ。 生きて帰れたらお前の嫁にくれてやると約束しておったからな。
妹もまんざらでなかったさ。山崎が遊びにくると楽しそうだったからな。 俺が思うに、山崎は妹以外に女を知らなかったのではないか。
慰安所?ああ、行ったさ。 山崎は有名だったぞ。抱かずに金をばらまく兵隊だってな。 ああ、こんな話は若い女性には失礼であったな。
あいつは暇があると浜辺や野山に行っては絵を描いておったよ。 絵といっても墨の濃淡だけで描くもので、掛け軸にあつらえてあるものがほとんどだから、もし茶席に招かれることがあったら掛け軸を確かめてみるといい。
美由紀は時々思うのだ。 美希は生まれてくる年代を間違えたんじゃないかと。
今日は日曜日だ。 普段なら8時までベッドでごろごろして、映画を見たりお昼時にショッピングをしたりして過ごすのに、今日に限って7時におきて朝シャンして 髪型を整えて、美希が言うところの一張羅の洋服を着て、これじゃ、まるで彼氏持ちの女だわ、なんて言うところが美希に影響を受けて似てきたのかもしれないなぁ。
「あ、わるい、待った?」
駅前で10時の約束をして9時50分にきたのだけれど、9時55分に来た美希はまるで1時間も相手を待たせたようなばつの悪い顔をした。
「約束の時間はまだよ」
「よかった。あの店にちょっと寄ったものだから、待たせたかと思い込んでしまった」 確かに美希の手提げバックには包装された商品のようなものが入っている。
しかし・・・・・・
美希の格好って、まるで、まるで・・・・・・
「さぁ行こう」
「美希ちゃん、一張羅ってそういう意味だったの?」
「あ?」 美希は目を丸くして 「ああ、私はこれでいいんだ。美由紀もそれでいいよ。いつもより美人だ」
「この組み合わせでどこへ行くのよ」
「言わなかったか? 白翁のところだけど」
「それは聞いたわよ、ただなんで美希ちゃんが・・・」
「すぐにわかるよ」
美希はまるで美由紀の彼氏のような口調で、美由紀の手を取って歩き出した。 「美希ちゃん、手は」
「あ、悪い。触られるのは嫌いだった?」
何故だろう? 美希は他の女子にはごく普通の会話をするのに二人で話すときはこんな口調になる。どちらが素なんだろう?
そこは古びた、小さな家だった。
「白翁、いるか?」
美希は玄関先で大声を出した。
「今日は美由紀を連れてきた。そちらから開けてくれぬか?」
そちらから? どういう意味だろう。 すぐに玄関の戸は開いた。 見るからに人のよさそうな、品のいい老人が顔を出した。
「美希ちゃん、覚えていてくれたんだね」
「あたりまえだ。友人の奥さんの命日を忘れるほど私は薄情じゃない」
「それにしても、喪服とは他人行儀だね」
「どうでもいいが、線香を手向けたいんだが」
「ああ、すまん、上がってくれ。いつもは玄関先で話したりしないもので調子が狂ったな」
「白翁のことだ。もう墓には行ったのだろう?」
「ああ、行ったよ」
「線香は奥さんと、山田さんと、戦友2人で4本、いやげんが悪いから5本にしよう」
「美希ちゃんは小隊長殿や戦友たちと会ったことがあるのか?」
「白翁、世間は狭いんだよ」
「美希ちゃん」 思わず美由紀が声を出した。 「あの、悪く思わないで下さいね。美希は、」
「美由紀、言わないで。それより、言うべきことがある。ちょっと待ってて」 美希は仏壇に5本線香を供えると、ソファーに腰を下ろした。
美由紀も自然とその横に座った。白翁の正面になる。
「静岡のことは美由紀に聞いてくれ。私が言いたいのは」
美希は手提げバックから包みを取り出した。
「今日は奥さんの命日だ。白翁が一途に思った奥さんがどんな方なのかは私は知らない。白翁の戦友が1人1人いなくなる寂しさも私にはわからない」
美希はまるで、白翁の背後に語りかけるように呟いた。
「白翁、最近のあんたは覇気がないな」
「覇気か?」
「家に籠もりがちだし、気鬱になるのはわかるよ。でも、あんたを待つ人たちはそんなことを望んではいないだろう?」
「どちらでの世界のことを言っているのかな?」
「両方さ。もっとも私にはこの世のことも十分にわからない。でも、若いが、白翁の友人だからわかることがある」
「美希ちゃんは何かを悟ったのか?」