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白翁物語  その1

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静岡の兵のことを知りたければ34連隊の方へ聞くとよい。
たしか駿府城に兵営があったと記憶しているが、間違っているかもしれん。
まあ、山崎は妙に戦の上手な奴だったな。
ツルブで記憶に残っていることとは、このくらいのことだが、よかったかね?



「ありがとうございます。ところで、10年前に筆を折ったというのは?」
「奥さんがお亡くなりになってやめたと聞いた。もっとも白翁の号の由来は知らん。戦後まだ家で野良仕事をしておったときにふらっとやってき て、花鳥の掛け軸をよこしてな、そこに白翁と書いてあったからお前さんの号か? と聞いたらそうだと答えた。それだけのことでな。そうだ、絵画のほうに詳しい奴がいるかも知れん。看護婦さん、部屋へ戻しておくれ。山崎伍長の友人のために紹介状をしたためて差し上げよう」


ギャラリーポーロヴェツは旧国道沿いの繁華街の中にある。
絵画・骨董を扱う大店で、ギャラリーというよりアンティークショップあるいは骨董屋といったほうがぴんと来るだろう。何せ店頭に古めかしい壷を並べていたりするのだ。
店内の飾り棚にも日本古来の朱塗りの盃の横に夜光杯が置かれている、和洋折衷ならぬ和華折衷といった趣の店なのだ。取引される絵画にしても然りである。
美希が訪れたとき、主人は丁度商談中で、内儀の登紀子に案内されて奥座敷の上座に通された。

普段、いかなる常連であろうとも奥座敷に通すことはない。ましてや主が座すべき上座に通すなど尋常なことではなかった。山田老人のお墨付きというだけでこの扱いであるから、縁も尋常なことではあるまい。
もっとも若い美希にそこまでわかろう筈もない。
きっと主人がこられるまでお相手してくださるのだなと感じたに過ぎない。
世間に知られてはいないが、実はこのギャラリーの仕入れと値付けをしているのは登紀子である。天性の目利きである。
主人は実はお人よしであるので、他人の言うことは何でも信じてしまう。
このギャラリーが不況の煽りを喰らっても身代が傾かぬのは登紀子の客に対する目利きも尋常ではなかったからである。
登紀子は下座に座ると茶菓子も出さずに申し訳ありませぬが、と言って美希の目をじっと見た。

「いえ、お話を伺いに参っただけですから。それにこのようなご立派なお屋敷でお茶を出されても作法もわからぬ若輩です」

美希はこのようなかしこまった言い方も出来るのである。

「ご主人がいらっしゃるまで、私のために間を持っていただけるのはありがたく存じますが、気のきいた話し一つできない無作法者です。無作法ついでにお願いがありますがよろしいでしょうか?」

登紀子はつい、山田様からのご案内です。当店の物に関するものでしたら、どれでもお持ちください。と口走ってしまった。

「無心ではありません。この床の間のお刀を拝見させていただきたいのです」
おや? と登紀子は思った。少女が刀に関心を示すのも珍しいが、刀には見方というものがある。自分の教養のほどを暴露しようと言っているのに等しいではないか。
登紀子にとってこれは目利きのチャンスであった。さっそく手入れ箱を持とうとすると美希はそれを制した。

「打ち粉も椿油も不要です。目釘も抜きません。ただ、刀身を見せていただきたいのです。お懐紙は持っていますので」

美希はそういうと懐紙を口に含み、軽く礼をし、刀を手にすると鯉口を切って慎重にはばきを確認し、静かに鞘から抜いた。
美希の目が緩み、鞘に戻すと刀を元の位置に返して懐紙をスカートのポケットに入れた。

「見事な柾(まさめ)肌にすぐ刃にのたれ。この2尺3寸は仙台住藤原道長の業物ですね」

「え、ええ」

「もしかして、軍刀に使われませんでしたか?」

「はい、たしかに山田様から頂いたときに元の姿に戻しました」

「そっかぁ、これがツルブへ持っていった刀だったんだ」

「あ、あなたは一体」

登紀子は今ほど自分の目利きに自信を失ったことはなかった。どこから見ても少女であったし、山田老人の孫かなにかで、孫可愛さのあまり、以前世話をしたこの店から何か値打ち物を持たせようとよこしたのではないかと疑っていたのだ。

「あ、私が来たことは学校に言わないで下さいね。実はさぼってるんです」

美希の笑顔につられて笑顔になっていることに登紀子は気がついた。
不快ではなかった。

「実は、私は山田さんとは一時の話をしただけの縁のものに過ぎません」

登紀子は確信した。この少女は私が事実上この店の柱であることを見抜いたのだと。

「ご用件を承りましょう」

「私は白翁の友人です」

「白翁、とおっしゃいますと、山崎様でございますね。あなたのような友人をお持ちとは存じませんでした」

今度は登紀子は疑わなかった。山崎様は連れ合いを亡くされてから絵画という道楽を断っておられた。きっとこの少女にめぐり合うことによって白翁が目覚められたのだろう。

「まだ1年、1週間に1日だけの友人ですが」

「友情の濃さは年月に比例するものではございません。山崎様はよい方にめぐり会われましたね」

「あ、その前に山田さんにここの主人にのみお話せよと言われたことがありました」

「あ、ではすぐに」

「いいえ」
美希は頭を振った。
「ここの主人はあなたですね。たぶんあなたにおっしゃったんだと思います」

「伺いましょう」

「わしは明後日先に逝く。夢枕に立つことはせぬが、おってはならぬ。生きよ」

「・・・・・・ 確かに承りました」

「伝言は終わりました。私と山田さんとの縁はこれで終わりです。密葬を望まれておられましたから」

「そうですか」

「あの、実は正座していて足がしびれたのでだらしのない格好がしたいので、2時間ばかり1人にさせていただけませんか?」

美希の申し出に登紀子は救われた。思考が乱れだしていたのだ。少なくともこの少女の前で涙など見せてはならぬ。

「わかりました。おやつを持ってまいりますから、それまでごゆるりと」
自分の笑顔が引きつるのを感じながら登紀子は部屋を出た。足がしびれたと言うのは嘘であろう。いい大人が少女に救われるとは・・・

「ずいぶんお待たせいたしましたなぁ」
少し間の抜けた声でこの店の表向きの主人が部屋に入ってきた。

「家内がろくにお相手もせずにどこぞへ駆けていきましたが、どうしたのでしょうなぁ?」

「さぁ?」

美希は笑顔でこの主人を見た。
嘘を言うには気がひける相手だ。

「このお刀を見せていただいたので」

「ああ、このお刀について何か問われましたのですな。それならば行き先は山田様のところでしょう。さすがに刀剣は本業ではありませんのでな」

「私のような若輩者が見てもこの道長は惚れ惚れします。どうでしょうご主人、私が学校を出てこの刀を買えるくらいのお金がたまったならば、私にこの刀をお譲りいただけませんでしょうか?」

「お嬢様がこの刀を所望なされるので?」

「はい、そして白翁に見せてやりたいのです」

「山崎様にですか?」

「白翁ならば一目で誰の差し料かわかりますよ。しかしいいお刀だ。眼福でした」

作品名:白翁物語  その1 作家名:田子猫