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白翁物語  その1

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「白翁、少しはテレビを見なよ。シーラカンスになっても知らないからな」

「生きた化石かい」

「当たらずとも遠からずだろう?」

「そうだな。カーネルサンダースの人形がどうのって話で、サンダース大佐とは進駐軍かと訊いて笑われたのはついこの間だったからな」


梅の花も咲き出した、老人ホーム「安らぎの家」の庭園の東屋に車椅子の男がいる。
セーラー服姿の美希に東屋内の無骨な、木で出来た椅子に座るように勧めた。
車椅子についている白衣の20代後半と思われる女性の看護師は、席を外しましょうか? と問うたが、男は頭を振って、このわしにそう気をお使いになるとこのお譲さんがかえって話しにくかろう。月曜の朝だというのに、おそらくは学校をさぼって来てくださったのだ。おそらくは今日限りの縁であろ うから、しっかりとお嬢さんの質問に答えてやりたい。
いや、身内ではないさ。このわしへの見舞いなどここ何十年ないではないか。来るとしたら明後日の夜だ よ。わしの臨終に際して遺言状はなかったかと目の色を変えてくる奴が3人ほどおるわ。そう言ってからからと笑った。

「明後日お亡くなりになる予定なんですか?」

おそらくこれ以上ないぶしつけな質問に看護師の顔が青くなり、美希の目を睨んだ。

「そうさ、美希さんとおっしゃったな。わしはもう90以上生きておるから自分が死ぬ時期などとうに察しておるわ」

「奥さんや戦友がたくさんお迎えに来られるでしょうね」

「いい事を言う。今日は梅のいい香りがする。もしかするとお前さんは梅の精かもしれぬな。どうりでここ数日気分がよいわけだ。ここでお前さんと会わせるために梅の奴、ずいぶん無理をして早咲きをしおった」

そう言ってまたからからと笑った。

「私は白翁の友人です」
美希がそう切り出すと男は居住いを正して美希を見た。

「山崎伍長の縁の者か。そうでなければ十年前に筆を折った山崎の号など知るはずもないからな」

「単なる友人です。血のつながりはありません。ただ、白翁の事でお聞きしたいことがあったので」

「お前さん、まだ10代だろう?」

「おっしゃるとおり、学校をさぼってここに来たただの不良娘です」

「いや、人の話を聞くのもこれ勉学。不良などと卑下なさることはない」

「ツルブでの事をお聞かせ願えますか?」
男の顔色が変わった。軽くあしらってはならぬ相手だと理解したためである。

「看護婦さん、今の質問は理解できたかね? できんだろう。大東亜戦争の話を聞きたいといったのだ。そう妙な顔をすることもなかろう。美希さん、試すようで悪いが、ツルブとはどこにあるのかをこの看護婦さんに教えてやってくれぬかな? 二人の間の空気が妙でわしは話しにくいのだよ」

「はい、ツルブはニューブリテン島のニューギニア側にあり、ダンピール海峡の北側を制する要点です。ここで三角山の争奪をめぐる連合軍との戦いの中にあなたもいらっしゃったのではないんですか?」

「その通り、お前さん本当に10代の女の子かな? まあ、そこまでわかっておるんだったら語らねばなるまい。看護婦さん、あんたもそこの椅子に座って聞くといい。半分以上話はわからぬだろうが、こっちのお嬢さんには理解できるはずだからな。ああ、本当に美希さんはいい時に来た。わしは今まで呆けておったが、死期が近づいたからか、昨日あたりから頭がはっきりしておる。もっとも記憶違いなところはあるだろうが、そこは許してもらいたい」

わしと山崎の出会いは戦場だった。

わしは学校出立ての新品少尉で、幸い輸送船がボカ沈くらわずにラバウルに着いたので、そこからツルブへと向かった。左腰には藤原道長の業物を軍刀仕込にして、右腰には名前は忘れたが、洋物の拳銃をぶらさげて、勇んでいったものさ。
中隊本部を探し出して着任の申告をしようとすると、ちょうどよかった、さっさとこいと作戦室に連れ込まれた。
中隊は3時間後の攻撃を命ぜられて、慌しく会議をすることになったらしい。
わしが入ると一人の上等兵がさっと立った。
本物の小隊長がいらっしゃったので山崎は戻りますと中隊長に言った。
中隊長は山崎ここにいろ。こいつは地理不案内だから貴様が小隊まで連れて行ってやれ。おい山田少尉、この小隊長代理の山崎伍長と行動を共にしろ。とびっくりするようなことを言った。
山崎はわかりました。外で控えております、とすたすたと出て行った。
戦場昇任で階級章が違うことはままあることだったが、小隊長代理だったら普通曹長か軍曹だろう。
まあ、そんなことはおいておいて、
わしは第3小隊長で中隊の助攻(作者注:助攻撃)を担当し、昨日全滅した第1小隊の陣地を回復することになった。主攻(作者注:主攻撃)は第2小隊で三角山そのものを目標とするためにすべての砲・重機・擲弾筒は第2小隊正面に集中することになった。
その夜の斬りこみはうまくいったよ。
問題は次の朝さ。
すさまじい砲撃のあとで敵の吶喊(とっかん)(作者注:突撃の喚声)が聞こえた。
声からすると100人は下らぬだろうと思った。
わしの壕には山崎が一緒に入っておった。
小隊はわしと山崎を除くと5人ほどしか残っておらなんだ。
パパパパパという音と共に砂がパラパラと壕内に入ってきた。
わしは新品少尉だからすぐ血がかっと頭に上り、座して死を待つくらいなら華々しく陣前に出撃して斬り死にしようと軍刀に手をかけた。
その瞬間、山崎がわしの手をつかんだ。
おそろしい目でわしを見た。
今は死に時ではない。あんたが出ると小隊はみな出るぞ。
死にたいのなら戦が終わってからにしてくれ、そう言いおった。
まもなく敵は殺到するぞ、どの道一緒だというと奴は敵が鉄条網に来るまで待て、5つ数えろという。
仕方なく5つ数えたらその瞬間ドドドドという音がした。わしは信じられなかった。
重機の音だ。なぜわが小隊に重機がいるのだ?
壕から頭を出すと、敵がほんの50m手前でばたばた倒れている。突入のために鉄条網を越えようとしたときに真横からわが重機に側射されたのだ。
山崎が手を離した。わしは刀を抜いて壕から飛び出した。刺し違えてもいい、そう思っていた。
ところが、信じられぬことに敵のうちで生き残った奴らは武器を捨てて逃げ出しおった。
追うなと山崎は言った。
それで壕に戻って山崎に聞いた。
わしはこんな戦いを学校では習わなかった。何から何まで不思議だった。
山崎は笑顔でこう言いおったよ。
敵が逃げ出したのはあなたのおかげですよ、と
山崎が言うには、わしはどこから見ても典型的な帝国陸軍の将校だ。
側防火器があって将校を先頭に陣前出撃してくるほど予備隊を持っている防御陣地に突撃をかけるのは馬鹿げている、そう敵は考えたのだと。
なるほど、ろくに斥候を放たずに攻撃をかけた連合軍にすればそう考えるのは至当かも知れぬ。
しかし、あの重機は一体どうしたのだ?
山崎は仲のいい部隊がありましてね、といってすぐ、戦場道義に反しますからこの重機のことは内密に、戦闘詳報にも書かないで下さい。と言っておったな。

え? 部隊に静岡出身の兵隊はいたかって?
いや、いないな。
作品名:白翁物語  その1 作家名:田子猫