君へ
僕と晴実、二人で同じ日に休みがとれて、僕らは映画を観に出かけた。上映されていたものは女性の心理のみを深く描いているだけの内容で、退屈を感じた僕はすぐに眠った。しかし、クライマックスにも近づくと女性客の大半は涙を流していたようで、晴実もまた同じだった。外に出ると眩しさで目が潤み、だから僕も「感動した」と冗談のつもりだったのだけれど、晴実は本気にして捉えていた。僕が眠っていたことに気づかないほど観入っていたのだろうか。
空はとてもよく晴れていて、青は心に清涼感をもたらすというけれど、でも、いくら空の青い色を見たところで心に涼しさは少しも舞い込んでこなかった。暑い夏の午後、晴実は太陽の光を一身に浴び、レースカーディガンと下に着ている花柄の白のキャミソール、それに細身のパンツがとてもよく似合っていた。いくつもある小さな花の柄もまるで晴実に同調し、太陽を求めているかのように衣服の皺と共に身じろいだ。
僕らは冷たいものを飲もうと喫茶店へと入り、アイスコーヒーをかき混ぜながら映画の感想を語り合った。いや、僕は話をわかっていなくて、ほとんどの会話を感嘆詞で終わらせたものだから、晴実は機嫌を次第に損ねていった。
「映画もよかったけどさ、食事、なにが食べたい? 晴実ももうすぐ二十四歳の誕生日だしさ。少し早いけど、ちょっとばかし高いものでも全然かまわないよ」
と話題を変えて機嫌をとろうとした。すると、そっぽを向いていた晴実は途端に表情を緩ませ、まるで待ってましたと言わんばかりに、「じゃあ、高級フランス料理で許してあげる」と僕を驚かせた。もちろん、お金がないわけじゃなかったけれど、フランス料理みたいなマナーのうるさい食事なんて今まで一度もしたことがなくて、だからきっと、豪奢だろう店内の雰囲気に気圧されるだけでなく、世間知らずの気取り屋だと思われるのがオチに決まっている。
「絶対にフランス料理じゃないと駄目なのかい?」
いきなり拒絶することはせずに様子をうかがったのだけれど、もしそれでも変更する気はなさそうなら、ままよの精神で突入するしかないのだろう。
「うん。赤ワインも飲みたいの」
僕はもう腹をくくることにした。
「まだ時間があるから買い物でもしよう。フランス料理はそれからだ。店も探さなきゃいけないしね」
それからはブティックを回り、雑貨屋、CDショップにも足を運んだ。お互いに買いたいものを買い、太陽はいつの間にか姿を消し、代わりに月が太陽の光をわずかながら反射させ、星降る夜空の灯台のように煌いていた。
食堂街の案内掲示板を眺め、僕らはいかにも高級そうなフランス料理店へと向かった。しかし、幸いにもその店は見掛け倒しで、つまり、絵画や骨董品のような僕には価値のわからない美術品があったり、重厚さを感じさせるきらびやかなカーテンであったり、高そうな木製テーブルとおそろいのチェアーなどがあってお洒落な雰囲気の造りではあったものの、メニューの料金は控えめで、箸で料理を口にしてもいいというそこにはフランスの心はないようで、まさに日本人のために創られたようなものだった。客のほとんどはカップルばかりで、なんとなくだけど、僕と同じように正式なマナーを知らず格好悪い姿を見せたくないと思っている考えの男が、この店に彼女を連れてきているのだろう、と思えた。
「ま、いっか」
晴実は洒落た空気に満足したのか、一人納得した。僕は、正直、注視して見るとそれぞれのアンティーク品にはなんの関連性もないような気がして、それは日本で言えば、大阪城と金閣寺の模型を一緒にして並べられているようなそんなアンバランスさだ。僕はなにも目が利くほど詳しいわけじゃないのだけれど、それでもどことなく違和感のようなものを感じ、もしその違和感が正しいものであったとしたのなら、この店はやっぱり見掛け倒しなのだろうと思った。だからといって、多少の知識をひけらかし、ペダンチックになるつもりも毛頭なかった。晴実が喜んでいるのだからなにも言う必要はないのだ。
席に着いてメニューを見ていると、こざっぱりとした中年のウェイターがやって来、紳士のように柔軟に飲みものをまずは尋ねてきた。晴実がワインをボトルで注文し、僕らはこの店で一番値の張る三千円のコース料理を頼んだ。
「もう少し高い店でもよかったかも知れないね」
「いいの、きっと十分美味しいはずよ」
ソムリエはいないのか、さっきのウェイターがすうっと現れたかと思うとグラスにワインを注ぎ、一例すると静かに去って行った。僕らは乾杯した。なににだろう。言葉では晴実の一週間後の誕生日を祝った。でも、僕の本心はよくわからなかった。
なにも言わない約束。ただ僕といるだけで晴実は幸せを感じると言った。そしてバレリーナの彼女のことを忘れさせてあげるとも言った。でも、僕はこの三ヶ月間、一日たりとも、たとえ晴実が隣にいようとも、バレリーナの彼女のことを想わなかった日はない。そんな僕が、このまま晴実と付き合い続けていいのだろうか。僕は晴実に甘えているのだと思う。少し、心の平穏と快楽を求めているのかも知れない。こうやって二人でデートし、晴実の笑顔を見ると僕だって嬉しくなるけれど、どこか空虚なものを感じることも多くあって、それに、人は人を求める――、マスターの言うとおりならば、やっぱり僕は晴実の体温を感じ生きていることを日々実感したいのだろう。だから一緒にいるんだ。でも、誰かを恋い慕う気持ちというのは、お互いに体温を感じるというものにも似ているような気がする。ただ、片思いというのは、半端でない、消えゆく星光を眺めるような苦悩が押し寄せては来るのだけれど。
食事を終えたあと、僕の部屋へ二人で向かった。僕はそれほど飲んでいなかったからあまり酔ってなくて、でも、晴実はきゃっきゃと騒ぐほど、かなり酔ったらしかった。そして、部屋に着くなりまたアルコールを流し込んだ。僕の部屋に置いているお酒はウイスキーのみで、晴実をあまり酔わせたくなかったので水割りにした。彼女はベッドにだらしのない格好で横になり、結んでいた髪をほどいた。袋からこぼれ出る砂金のごとく晴実の黒髪はベッドに広がった。僕は隣に軽く座り、嘆息を漏らした。
「ねえ、もう三ヶ月も経っているんだから、あなたが想い続けている女の子がどこの誰だか教えて頂戴よ」
呂律があまり回っていなくて、本当にひどく酔っているように思えた。そしてその質問は、晴実が悪酔いしたときに今までにも何度か投げかけられたもので、あしらい方は知っているのだけど、それでも苛々とした気分になってしまう。
「最初に言ったろう。教えるわけにはいかないよ。何度も言わせないでくれ」
苛々とするのは、僕がこうやって返事をし、自己嫌悪に陥るからだ。晴実を悲しませることになる。
「なんでよ、あたしはその人を殺すの。殺してあなたを振り向かせるの」
「殺せば君は逮捕されて僕と一緒になることもできなくなる。それに、きっと、僕は君を憎むだろう。だから冗談でもそういうことは言っちゃあいけないんだ」