君へ
「違うね。体温を感じ、生きていることを実感するためだよ。人は誰しも自分に対しシニカルになるときがある。虚無的になるときがある。しかし、人は死なず人を求める。人の温度、自分の温度――その中には熱い命があるからだ。それは涙より熱いものだ――」
「いい雰囲気で語っているところすまないが、マスター、それも違うぜ」
そう口を挟んだのはミュージシャン風のあの男だ。
「ほう、それじゃあ赤杉君、きみはどう考えるんだい? まさか、生きるためだなんて在り来りなことを言うんじゃあないだろうね」
マスターはさも嬉しそうな口調で挑発する。
「いや、まあ、その……マスターの言うとおりさ。人は生きていることを実感するために人を求めているんだな」
そのいかつい風貌とは裏腹に、見事に情けない姿を呈した彼は、なんともきまり悪い表情を浮かべていた。
「君の考えていることは全てお見通しだよ。ははは」
「ちくしょう、今度は絶対に負けねえ」
そう言って彼はグラスを空にし、また同じものを注文した。
「生きていることを実感するため……なぜ、なぜ実感する必要があるのだろう」
「確かにそうだ。人はいちいち、今自分が生きているかどうかなんて考えない。それは一切の余裕がないからだ。幸福ではないからだ。幸福に包まれている者は皆、生きていることに感謝する。この世に生を受けたことに感謝する。生を実感するとは――明日の光を浴びるという希望を持つことだ」
「希望……いや、違う。やっぱり違いますよ、昔はそうかとも思ったけど、そうじゃない。そうじゃなかった。生の実感とは自己防御だ。精神の閉鎖だ」
「おう、そうだ、その通りだ」
また赤杉とやらが口を挟む。もしかするとずいぶんと出来上がっているのかも知れなかったけれど、蝋燭の薄明かりの元では彼の顔色までははっきりとうかがうことも出来なかった。
「そうなると、私は『なぜ?』と訊かなくてはいけなくなるね」
「ええ、かまいませんよ。しかし答えは簡単です。生の幸福を知ると安堵し、やがて平穏のみを求めるからです。発展を望む者は自らの命を削る覚悟を常に持っている」
「そうとも! 俺もそれが言いたかったんだぜ、相棒。いっぱい驕らせてくれよ」
普通、いや、この場合普通ではなかったのだけれど、バーではこうやってちょっとした切欠で自然に仲間や知り合いが増えていく。これも僕の一つの楽しみといえば楽しみなのかも知れない。でも、僕は赤杉とやらの好意は断った。他意はなく、一人で飲んで、ここでの、初めて僕が反駁した討論に、そして晴実を想い、少し疲れたからだ。
「やあ参ったな。降参だ。しかし今度は勝たせてもらうからね、ははは」
口元の布が息でかすかに揺れる。
「マスター、あなたの敗因は自説に絶対の自信を持っていなかったことですよ。自信があれば僕の説だって弁駁できる。でもまあ、僕だって明日の光を浴びるという希望は持っていますから――。お話って案外いい加減なものですよね」
「ま、相手に反論することで会話が成り立つことも多いからね」
「またよろしくお願いしますよ」
「あ、もう帰るのかい? 一杯だけで?」
「ええ、ご馳走様。楽しかったです」
「そうか、じゃあまた来てくれたまえよ」
そうして僕は「ジーザス」をあとにした。この店は誰かの心の救世主にでもなることを目指しているのだろう、と通って初めて気づいた。
メールを送るのをやめてからの日々は、常に胸が締め付けられるような感覚で、泣きたい気持ちや、完全に諦めようとする気持ち、しかしそれでも会いたい気持ちがあって、それに、偶然耳にしてから聴くようになった「SOMETHING CORPORATE」というアメリカバンドの「KONSTSNTINE」という純愛を歌っている曲にひどく共感し、たぶん泣いていたかも知れない。そうして僕は耐え切れずに、彼女のメールアドレスと、今まで受信したメールの全てを消去し、今までの一切をいい思い出として、彼女への想いを忘れることの決心をした。
しばらくの日が流れた。彼女に対する想いも、心に一つの雫を残して終焉を向かえるのだと思った。そして、彼女のことがわからなくなった。それは、僕がメールを送るのをやめてしばらく経ったある日のことで、「最近お店に来ないね」という彼女からのメッセージが液晶画面に映り、お土産の件もあって、僕はもう店に行かないほうがいいと思った、と答えると、「全然気にしていないよ」と返ってきたからだ。だから僕は、結局わけがわからないままコンビニエンスストアーに顔を出した。レジカウンターには彼女がいて、「久しぶり」と優しい笑顔だった。この笑顔だ。屈託のない純粋な、いや、むしろ僕にとって残酷なまでの純粋さを持つ笑顔――、一度は諦めた恋、しかしまた僕は彼女に魅了されてしまったんだ。
そうして、まるで花の密に誘われる昆虫のようにしてまた通い始めた。彼女は僕の瞳を見た。僕も同じようにした。指と指がいつも触れた。でも、それは、僕が仕事で客の眼を見るのと同じように、釣銭を渡すときに指が触れるのと同じように、まったく、なんでもないことだった。
僕はいつしか、花の蜜に塗れ、花弁に囚われるまでになっていた。それからまたしても他愛のないメールの交換をしていた。せめて、彼女の心を知ることが出来たのなら! 少しでも彼女が明かそうとしない秘められた思いを吐露してくれたのなら! 僕はそうやっていつまでも悶え続けた。
それから幾日かすぎた。メールは返って来ない日も多くなった。それでも店に行くと彼女は笑顔だった。ますます僕は混乱し、幼子が母の憎しみと愛情を同時に味わうかのような、母の態度を、機嫌を、びくびくしながら一々うかがっててしまうまでになってしまったかのような心の苦しみからの解放を願った。
思えば、僕は恋を煩うと破滅へと進んだ。昔は、一年以上続いていたアルバイトを辞めるまでに思い悩んだこともあった。そして今、このとき、一つの区切りをつけようと思ったんだ。いや、賭けと言うべきかも知れない。僕は少しばかり自暴自棄の気も含み、駄目で元々と思い切り、どこかで会って話がしたい、とメールを送ったんだ。すでにこのとき、返事は半日以上経ってからしか来なくなっていた。そうして届いた返事――、「ごめんなさい。バレエのレッスンが忙しくて、アルバイトもあるし、友達との付き合いもあるから会えないの」。
これで、完全に諦めようと思った。そして、それでも彼女のバレリーナとしての成功を願い、「もうメールはやめようと思う。お店にも行かない。辛くなるだけだから……。でも、君がバレリーナとしていっぱいの光を浴びて舞台の上で舞っているときに、僕がもし文壇の世界に上がることが出来たのならそのときは――そのときはぜひ握手の一つでも交わして欲しい――」と送った。そして少し、小説を本気で書こうと思った。でも、彼女からの返事はなかった。
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