君へ
と僕が微笑しながら言うと、「ああ、俺もそう思っていたところだよ」と態度に出ていたことにも気づかないのか、やけに嬉しそうにして先に店内へと入って行った。彼は嘘をつけないタイプで、すぐに態度に出る。普通、人は嘘をつくと相手の目を見なかったり、手をぶらつかせたり、鼻をかいたりするものだけど、彼はその全ての動作が大袈裟で、誰が見ても彼の態度や動作で彼自身がなにを考えているのかある程度の察しがつく。その馬鹿正直なまでの槻木の実直な振る舞いに、僕は好感を持っている。でも、一度、彼のその性格が災いし、客から大目玉を食らったことがある。と言っても、お叱りを受けたのは僕で、それは入社したばかりのある日、客が本を探してくれと僕に声をかけてきたときのことで、その客が少し汚らしい格好をしていたもので他の客が嫌がるだろうと思い、早く追い出そうとして、「その本は取り扱っていません」とあしらったのだ。あまりに素っ気ない態度だったせいか、その客は訝しげに僕を見、やがて槻木にも訊ねた。すると彼は嫌な顔一つせずまるでどこにどの本が入っているのか、その全てを暗記でもしているかのように客を案内したのだ。当然のようにして彼は本を渡し、笑顔で挨拶をしたのだけど、僕を視界に捕らえたその客は見る見るうちに表情を強張らせ僕に突っかかってきた。激しい剣幕でなにやら捲くし立てていたように覚えているけど、頭を下げることでいっぱいになり、客の罵声はちっとも耳に入っていなかった。そんな態度の僕であったから、客はますます激憤し、ついには上司に言いつけたのだった。あとで知ったことなのだけれど、その客は常連で、バイトや社員の新顔を見るたびに嫌がらせをするらしく、そういう評判で上司も理解してくれていたので、なんの罰も受けずに済んだ。客の手前、少し叱られた程度だ。ただ、逆に槻木は褒められ、しかしそれによって意気揚々とするでもなく、僕はそんな彼の要領のよさと生真面目さに心底感心したのだった。
「おい、なにをネジの切れた人形みたいに立ち止まってるんだ。光合成で昼を凌ぐつもりか? 早く来いよ」
と呼びつけた。はっとして僕は、慌てて暖簾をくぐった。
何度か足を運んでいるこの定食屋は二人の老人によって営まれていた。老翁と老婆、もしこの二人が夫婦でないとしたのなら僕はきっと腰を抜かすだろう。それほど息の合った仕事ぶりを見せてくれるのだ。しかし、それはあくまで仕事上でのことであって、料理を作り終えるとすぐにテレビで再放送されている時代劇に二人そろって黙って見入るのだから、仲むつまじいようにはこれっぽっちも見えなかった。いや、同じ行動をしているのだから、やっぱりむつまじいのかも知れない。
「俺はアジフライ定食にするよ。お前はなににするんだ?」
「じゃあ一緒で……いや、やっぱり親子丼でいいいよ」
「ここに来るとお前はいつもそれしか注文しないな」
「好きだからね」
お茶を持ってくるのは老婆のほうで、注文が決まるまでずっと立ったままいつも待っている。一度、いつまで待てるのか試してみたいと考えたりもするのだけど、案外なにも言わずにさっさと奥へと引っ込むのだろう。そうして僕らの注文を聞き終えると、ぶつぶつと復唱しながら厨房へと帰るのだった。
「お前さあ、彼女とうまいこといっているのか?」
唐突に槻木は訊いた。
「なんでいきなりそんなことを訊くのさ」
「ん、まあ昔に比べて表情が暗くなったような気がしたからな」
「僕の表情が? まさか。僕はずっとなに一つ変わってなんかいやしないよ。そう、変わっていないんだ」
槻木は僕がコンビニエンスストアーの女の子に想いをよせていることを知らない。晴実と付き合っていることは僕がふとした切欠で漏らしたから知っているのだけれど、やっぱり槻木はただの同僚で、だから他に想いをよせている女の子がいるなんて深い話は出来ないような気もしているんだ。それは信頼できないからというわけじゃなくて、ただ、別に話す必要もないように思うから。いや、やっぱり廉直な槻木に非難されるのが目に見えてわかっているからかも知れない。
「そうか、それならいいんだ」
槻木は水を一口飲んだ。
「まあ、なんとか問題もなくやっているから心配は無用だよ」
やっぱり、まだ本当のことは言えない。晴実のことを未だ愛せず、それなのに体を重ねているなどと言えるはずもない。
やがて、昼食を運んできたこの老婆は案の定、アジフライ定食と親子丼の置くべき場所を間違えた。故意にしているとしか思えないくらいの的中率で、十割打者の猛者だった。「きっと、あの婆さんは寂しいんだよ。少しでも人を感じたい、人と関わりたがっているんだと思う」槻木はそう言っていた。僕もそれに同感で、だから何度置き場所を間違えようといつも笑って済ませている。また間違えているよ、と言うと、少し恥じらいを浮かべ元に戻すのだった。
昼食を終えるとまた仕事が始まり、僕は数ある書籍の呻きの中へ彼らを一つでも多く一秒でも早く客に解放してやるべく戦いを挑むのだ。
メールである程度彼女のことを知ってから、僕は意を決し、いずれ訊かなければならないことを訊くために文言を考え送信した。それは、彼氏がいるのかどうかということで、返答次第で僕の進むべき道が決まる。僕を不安の沼に引きずりこむには十分な時間をおいて返ってきたメールには、「彼氏はいないよ」と書かれたいた。僕は救いの手を差し伸べられた。心底安堵し、喜び、今後どうすべきか考えた。でも、僕はあれこれと計算して恋をするのは苦手で、だから自分の気持ちをぶつけるしかない、とは思っていたのだけれど、さすがにまだまだ告白するのは早すぎるような気もして、だからもう少しのあいだ普通にメールを続けたほうがいいのだ、と至った。
僕はある日、当時書いていた小説の空を描くためにどうしても遠くの海へ行かなければならなくなって、一人で旅に出た。彼女には、空を見に旅に行って来る、と送った。彼女は、「それはとても素敵なことね。あたしは青い空なら一日中だって見ていられる」と返信してくれた。僕は少し、彼女はロマンチストなのだろう、と思い、海に到着してから、僕の住む街では見られなかった、海の上に浮かぶ雲のない、いや、一つの輪のような雲だけが浮いている空を描写した。今思えば、あの輪は僕の心の隙間だったのかも知れない。それは、そもそも小説を描くために海に行ったのだけれど、他には、やっぱり彼女に対する恋の苦悩もあっただろうからだ。
やがて目的の地にいるときに携帯電話が震えた。それは、僕の描写に対する感想の内容で、一人で海に行ったのは初秋だったにもかかわらず、彼女は、まるで夏のよう、と書いていた。僕は恋焦がれる女の子に対して満足に季節を表すメールも送れないのか、と少しばかり辟易としたものの、その心も海に浮かぶ雄大な空がすぐに払い去ってくれた。