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ぱんぷきん
ぱんぷきん
novelistID. 38850
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君へ

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「確かにそうだね。しいて言えば心の開放、その根本は単純接触の原理。つまり、会えば会うほど好意を感じているものに対してはなおさら好意を抱くってことさ。恋愛ってそういうものだ。閉ざされた空間にかかる濃霧みたいなものだよ」
 それは、昔に聞いた、ある人の言葉を僕なりにアレンジしたものだった。
「あなたってひどい人ね。あたし達、付き合って三ヶ月になるのよ。単純接触の原理云々と言うのだったらあたしを愛してくれてもいいじゃない。――いえ、ごめんなさい。今でも十分幸せなの。あたしは確信するわ。あなたとあなたが想う人との単純接触の原理が失われた今、やがてその想いは消える。あたしはそのときを待つだけ。そんな無意味な心は早く消えればいいのに――いつもそう考えているわ。あたしは醜い心を持っているのかも知れないけど、あなたも焦がれる人がいながらあたしと付き合っているのだから同罪よ」
「君はなにも悪くないよ。悪いのは僕で、きっと、いつかあの子へのこの想いも消えてしまうのだと、心底ではわかっているんだ。サイダーから炭酸が抜けるかのように僕の想いが完全に空気に溶けて消えたとき、僕は誰かに抱きしめてもらいたがっているんだと思う。だから君が必要なんだ」
 嘘をついた。都合のいい嘘だ。僕はひどい男だ。
 お互いに少し見つめ合ったけれど、二人の磁石の目が反発し合うかのように僕らはそっと視線をそらした。しばらく沈黙が続き、その静寂に耐えかねてテレビをつけた。画面右上の時計が八時二十分を示していた。
「今日、またここに泊まるのかい? もしそうなら夕食でも一緒に食べに行かないかい?」
 テレビの雑音に心が幾分沈黙から解放されると軽く話しかけてみた。
「もう三日もいるから今日はやめておくわ」
 確かに晴実はいつの間にか僕の部屋に数日間連続して泊まるようになっていた。抱き合う夜もそうじゃない夜もあって、ただ一緒にいたいだけなのと彼女はいつも柔和な表情で言った。僕から家に呼ぶことは一度もなく、それはやっぱりいけないことのような気がしているからで、でも晴実は来てくれるのだから独り寂しい思いはあまりしなくて済んでいる。いや、寂しさを感じるようになったのは彼女がよく泊まりに来るようになってからだったかも知れない。
 それから僕らはお互いの時間にそれぞれ出勤し、僕は書店で本の整理や伝票管理など雑務をこなす。この書店の規模は大きく、街では一番の集客を誇っている。僕は一応社員ではあるけれど、なぜか万引き防止のためだけに突っ立っているだけの仕事をさせられることもあって、三年勤め、二十四歳になった今でも変な店だと思ったりもする。もともと僕は本が好きで、だから活字にいつも触れることのできる書店に勤めるようになったのだけど、四方八方から背表紙の「読め、手にとれ」というような怨念じみた様々な字体、色の文字を感じているうちに読書から離れるようになってしまった。まったく本末転倒だと思う。それでも僕はこの仕事を一生続けていくのだろう。それは、本に触れることで世の中の流れを少し感じることもできるからだ。


 初めてのメールを受け取ってからしばらく、僕は「ありがとう。メールくれないかと思っていたよ」と返信した。それから時間の間隔はあったものの、お互いに何通かやり取りし、彼女が「ひなこ」という名前であること、十九歳であること、それに、プロのバレリーナを目指しているということを知った。最初、彼女に対し、人とは違うなにかを感じていたけれど、僕のまったく知り得ないバレエの世界に生きることを求めていることを知り、僕はさらに憧れを持ったんだ。
 あの頃の僕は本を読むことが好きで、新人社員だったこともあり背表紙にうなされることもなく、読書をしては自分でも小説を書いていた。思いのままに綴っていたけれど、そういえば、不思議と恋の話は書いていなかった。そして今はもう、なにも書いてはいない。
 彼女は僕の心に気づいているのかどうなのか、それからしばらくは他愛のないメールのやり取りを続けた。一日に一通から二通。多いときでようやく四通程度で、僕は携帯電話の着信ランプが光るたびに心を躍らせた。そのランプの色はオレンジと赤の交互の明滅で、まるで携帯電話も僕と同じように恋をし、メールが届くたびに照れているようなそんな気がして、いつも顔を緩ませていた。
 メールをやりつつも、僕は当然のようにコンビニエンスストアーにも通った。今まで、レジカウンターでは笑顔だけを見せてくれていた彼女が、初めて話しかけてきてくれた。僕が商品を探していると、肩を軽く叩き、「元気?」と挨拶までしてくれるようになったんだ。僕は恥ずかしくて、少しの間だけ彼女の目を見るのが精一杯で、ほとんどは帽子を目深にかぶって他の客や店員とに壁を作っていた。メールをする以前は、いつの間にか僕の吸っている煙草の「キャビンマイルド」をレジカウンターに持ってきてくれるようになっていた彼女だったけれど、メールをするようになり、レジカウンターで少しの会話をするようになってからは、彼女はよく煙草のことを忘れた。僕も注文するのを忘れ、店を出てからの帰り際、ふと思い出すと、そんな彼女のちょっとしたミスも非常に可愛らしく思えた。平凡だった毎日に光が射した。全てを愛しく思わせる慈愛に満ちた光だ。その光は昼夜を問わず僕を照らしてくれた。


 書店で接客をし、昼休みの時間になると、同僚の槻木が僕を昼食に誘った。彼は眼鏡をかけていていかにも実直で、ウイットにも富み、言葉の端々に調味料のように味付けをする。長身で端整で知的で自信に満ち満ちている眼差しをした秀才型の槻木が、なぜこんな平凡な仕事を選んだのか僕にはわからなかった。大学を中途退学しなければ、彼ならきっと法曹界でも能力を発揮できただろうし、いずれは政界でも名誉ある職を得ることができるように思えたんだ。
「今日はなにを食べようか」
 と賑やかな商店街を歩きつつも槻木の目は前に迫る定食屋に釘付けで、近づくと、昼定食の書かれた黒板の文字をじっと眺めていた。
「ここでいいんじゃないかな」
作品名:君へ 作家名:ぱんぷきん