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ぱんぷきん
ぱんぷきん
novelistID. 38850
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君へ

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 黒い髪の毛の、夏の汗と埃にまみれた苦い味で目が覚めた。開いたカーテンから差し込む朝の光を浴びながら隣で寝ている彼女の、流星群を思わせるような艶やかで長い髪だ。花の密のような甘い香りも漂うのだけど、しかし、口に入った髪は苦い。後ろで髪を束ねるのを忘れ、そのまま寝入ったあとの朝はいつも彼女の髪が僕の顔を覆っている。口に入る以外には、たまに、くすぐったくてくしゃみと共に目が覚めることもあって、それが夜中だったときは目覚めの悪さと起こされた苛立ちで彼女を、あくまで軽くぶちたくなったりもするのだけれど、彼女の優しさを思うとやっぱりそれは当然無理なことで、だから髪をそっと撫でてやり、それから彼女に背を向けてまた眠るのだった。
 彼女――遠藤晴実はイラストを描く仕事をしていて、勉強のためにイラストばかりを集めた本を探している時に、僕が働いている書店で声をかけてきた。晴実は一目惚れだと言った。付き合って半年、でも僕には今でも心に想う女性がいて、晴実のことを愛してはいない。それでもいい、あたしが忘れさせてあげるから、と晴実は優しかった。だから、その優しさに惹かれ付き合うことになったんだ。そして何度も体を重ねた。昨日の晩も。でも僕は、未だ想い続けている女の子のことを忘れるつもりはなかった。そう、僕は晴実にとってひどい男なんだ。


 僕が未だに恋情をよせているその女性はいつも微笑んでいて朗らかで、彼女の髪もまた晴実と同じように黒く長く、特に、大きな瞳に特徴があった。黒く悲哀を含んだ瞳孔、その瞳孔から放射状に広がる虹彩は、カラーコンタクトレンズを入れているのかと見紛うほど、銀鼠色と臙脂色で出来た可憐なアネモネの花だった。アネモネ――、僕は本当にそう思った。でも、アネモネの花言葉が失恋を思わせるようなものだったなんて――。それを知ったとき、なんだかそのことが、僕の最悪な未来を暗示しているかのような悪寒を感じた。そして今、まさにその通りだったと実感している。
 晴実と出会うずいぶん前の春の日に、僕は近所のコンビニエンスストアーでアルバイトをしている彼女の姿を何度となく見かけ、幾度となく通った。胸の名札には平仮名で「たかはら」と書かれていた。たとえ仕事だとしても、彼女の笑顔は優しかった。彼女を初めて見たときから半年ほど経ったときに僕は決心し、携帯電話のメールアドレスを書いた紙を、アルバイトを終えた彼女が帰宅する間際に渡した。彼女は僕のことを、いつも買う煙草の銘柄を用い、「キャビンマイルド」の人だ、と笑顔で受け取ってくれて、すっと彼女の指と僕の指が触れた。そのときに、嗚呼、メールアドレスを間違えて書いていたのなら! と少し複雑な気分になったのを覚えている。
 僕は待ち続けた。僕の心を映し出しているかのような紅い携帯電話。僕は電波を入りやすくするためにカーテンを開け、窓を開け放った。僕は待った。ずっと待っていた。嫌われたのかも知れない、とか、やっぱりただの客でしかなかったのか、という不安しかなく、もう笑顔も見ることが出来ないのだろう、と悲嘆に暮れた。そして、その日、メールが来ることはなかった。考えることを辛く思った僕は、携帯電話を握りしめていつの間にか眠っていた。
 次の日の朝、目覚まし時計の金属音に起こされると、ベルをとめるよりも先に携帯電話を確認した。でも、何度見ても液晶画面には時刻しか表示されていなくて、メールアドレスを書いた紙を受け取ってくれたときのあの笑顔もまた、単なる接客の一つにすぎなかったのだ、と思わざるを得なかった。きっと、渡したあの紙は彼女の嘆息と共に捨てられたのかも知れない、とそう考え、携帯電話をポケットにしまい、勤務先の書店に向かったんだ。
 幸福は太陽の光と共にやって来た。マンションの入り口を出、眩い朝の光と、見たこともない新種のフルーツでも生(な)ったかのような、瑞々しい青さと種を思わせる小さな真白の雲とに心を奪われ微笑むと、直後、まるで現実世界に戻さんとするかのように携帯電話が震え、メールの着信を知らせる音が三秒間だけ鳴った。
「ちょっとびっくりしたけど、メール送ります。よろしくね」
 それは、ようやく届いた彼女からの最初のメールだった。そのメールアドレスにはオードリーヘプバーンを表しているとうかがえる「audrey」の文字があって、まさに僕にとって彼女はオードリーヘプバーンのような魅力ある存在だった。一番初めに届いたそのメールの文言はあっさりしていたけれど、きっと、メールとはそういうものなのだろう。僕は嬉々とした表情で職場に向かったに違いない。雑然とした街の灰色、アスファルトの汚れた黒い色も僕には全てが柔らかなパステルカラーに映ったのだから。雲の消えた一瞬の空の蒼がなにより僕の心を映し出してくれているようなそんな気がして、だから、今日は絶対に雨は降らないのだろう、とあのときに思ったんだ。

 晴実の髪を撫でながら僕は彼女の頬にそっとおはようのキスをした。そのキスは晴実のねだる、あくまで形式的なものだ。晴実は、うぅん、と息を漏らし、眠っているのにもかかわらず緩やかに否定するかのように首を律動的に左右に振って、しばらくして目を開けた。
「おはよう、目が覚めたかい?」
「うん、おはよう。あっ……髪を結うのを忘れていたわね」
 両手で顔を静かに覆い、軽い自己嫌悪でもしているように見えた。
「シャワーを浴びるといいよ。また髪の毛を食べちゃっていたからさ。このままだとそのうち君を丸坊主にしてしまうかも知れないな」
「やめてよ。でも、髪を結うのを忘れるくらいあなたとは体の相性もいいということなのよね。心は、わからないけど……」
「それは言わない約束じゃないか。僕の心だってこの先どうなるのかなんてわからないよ。それが人だろう? 生きるってそういうことじゃないか。確固たる信念を持っていたとしても、人の心なんて容易く変わる。人はそれを成長と言ったり堕落と言ったりするけれど、君はそれを――僕の心が君に傾くのを待っているんじゃないのかい?」
 僕はあくまでも一般的な、そして、僕の変わらぬ想いを除外してそう言い、ホットミルクを二つ用意した。その間、晴実はなにか考えているのか、唇を尖らせ、眉尻を垂らすかのような、そんな冴えない表情のままベッドで上半身を起こし、胸元のはだけた寝巻きをなおしながら僕を見ていた。
「なんだよ、なにか悪いことでも言ったかな? ほら、飲みなよ」
 カップをテーブルの上に置き、晴実を朝食に催促する。溜め息をつき、晴実は洗面所へと行くと、髪を結び、顔を洗って戻ってきた。眠気まなこの悲哀を含んだような表情から一変、知性をうかがわせる――「あたしはここで生きている」、と溢れ出んばかりの自信に満ちているかのようなエネルギッシュな表情に変貌を遂げていた。
「ねえ、あなたがあたしに心変わりしてくれるのは成長でも堕落でもないでしょう」
 晴実はミルクを一含みするとじっくりと味わっていた。僕はバターロールをほおばり、少し考えた。
作品名:君へ 作家名:ぱんぷきん