君へ
その日の夜はバーに行った。小説は破いて捨ててしまったのだけれど、最後にマスターにアドバイスのようなものをもらいたかったんだ。もちろん、気持ちのいいさよならができる方法の――。
マスターは、好きな人を諦めたい、人はなぜ人を好きになるのか、なぜ永遠の愛などと! と嘆き苦悶する僕にこう言った。
「永遠の愛なんてものはどこにもないさ。だから人はそれに近いものを探す。それは想う心だ。心の片隅でそっと思慕する、いつも一緒にいる人に対してなら、ただじっと優しく目を見つめればいい。人は永遠の愛を求めるから悲しみ嘆く。いつまでも追い続けるから逃れられない。永遠の愛など幻で、どこにも見つからないのだから! ならば、愛とは、想い合うことと思うかい? しかし、愛とは無償の奉仕だ。行動を伴わなくてはいけない。だから疲れる。永遠に続かないんだ。君がその女の子のことを好きだと言うのなら、無理に諦めなくてもいいじゃないか。想い続けるということは、永遠の愛を求めるということよりも素敵なことなのだから――。そして、人が人を好きになる。そもそもこれが厄介だね。人は懲りることを知らない。無駄に繰り返す。振られても失恋しても成就しなくても、また誰かを好きになる。それを考えると永遠の愛など幻想もいいところだと思わないかい? そうだろう? 偶然、近くにいる時間が長かったというだけのことじゃないか。単純接触の原理、そして熟知性の原則。恋ってのはそういうものがほとんどさ。視界に徐々に淡い霧がかかっていくのだよ。ところで、君は一目惚れだったかな? なにか人とは違うものを感じたと? ほう、そうか。それは珍しいかも知れないね。とにかくだ、人を好きになるってことはひどく曖昧なもので、好きになった理由というのも大抵あとからつけられたものがほとんどなんだね。好きになることは素晴らしいと言う人もいるだろう。それはそれでかまわない。僕は悩める君にへのお話をしているのだから。これ以上言うことはないよ。これからどうするかは君が答えを出すんだ。いいね」
僕はその言葉の節々に心を打たれ、それからしばらく考えた。そして、永遠の愛を求めるのではなく、永遠に想い続けることを心に誓ったんだ。だから、僕は晴実を悲しませることにもなったのだけれど。
5
とても晴れた日の朝、僕は清々しい気持ちで清澄な空気を吸い、昨日までとは一転、少しうきうきとした気分だった。それは、ただ朝日があまりにも眩しく、それが一気に、暗然とした僕の気分を吹き飛ばしてくれたからだ。そんな気分のまま出勤すると、バックヤードで槻木が僕に「なにか仕事を休むほどのいいことでもあったのか?」と不思議そうに小さく尋ねた。
「いや、なにもないよ。なんでそんなこと聞くのさ」
「なんでもなにも、顔がずいぶんとほころんでいる。それなのになにもないということは、ならばきっとお前は病気だなのだろう。にやけ病だ。これは恐ろしいぞ、なんてったって上司に叱られているときにもにやにやとするんだからな。気をつけろよ。ああ怖い怖い」
「脅かすなよ。でも、それほどほころんでいるのかな?」
「ああ、晴実ちゃんと結婚でもしたのかと思ったよ」
一瞬どきりとしたけれど、少し時間をおいて考えた。
「ああそうだ、もし喜んでいるのだとしたら、それは天気のせいさ。朝はとても過ごしやすかったからね。それに、晴実とは別れたよ」
「もう一度言ってくれないか」
「え、朝は過ごしやすかった」
「そうじゃない、その次だ」
いったいなんだというのだろう。頭を左手で抱え唸るように床を見ている。
「晴実と別れた」
僕は感情を込めず、閉ざされた扉を開ける呪文の言葉を探すようにして淡々と言った。すると、「ああ! ちくしょう! 馬鹿野郎が!」と槻木はまるでアメリカ映画でよく見る、暴れ狂い車を蹴飛ばす刑事のように怒鳴った。
「な、なんだよ」
「なんだよじゃないんだよ。なんであんな綺麗な人と別れたんだ! お前が悲しませたのか? どうりで最近店に来ないと思っていたよ」
「ちょっと待って、晴実のこと、好きだったのか?」
明らかに「あ」、という表情を槻木は浮かべた。槻木が晴実に想いをよせていたなんて、僕は少し楽しい気分になった。
「ま、まあ、一ファンだ。だからお前から横取りしようとも考えなかった。幸せを願っていたさ。なのにお前ときたら! なんてひどい奴なんだ」
「君が晴実のことを好きだったとはね、なるほど意外だよ。でもまあ、振ったんじゃなくてね。正確に言うと、振られたんだよ」
「なに? 振られたのか? 彼女の一目惚れだったのになあ。いったいなにがあったんだ」
「なにもないさ。僕の本当の姿を見て幻滅しただけじゃないのかな」
僕は少し卑屈になって答えた。それに、槻木には本当のことを言えないのだからこうしたほうがいいのだとも思った。
「それなら俺にもチャンスはあるかも知れないな。一つアタックしてみようと思うがかまわないね?」
「ここに来るわけないだろう。僕とのことを思い出してしまうのだから。それに、電話番号は消去したからもう連絡のとりようもないんだよ」
「なんて早まったことを! やっぱりお前は馬鹿だ。彼女は電話を待っているのかも知れないのに!」
「それはないさ。僕らは正式に話し合って別れることを決めたんだから」
「彼女から持ち出した話だろう?」
「ああ、そうだとも」
一瞬、本当に振られたのかどうなのかと疑われたような気がして冷や汗をかいた。
「だから君も諦めたほうがいいよ。それに、仮にだけど君と晴実が付き合うことになったら、君経由で晴実はきっと僕のことを思い出す。そうなると僕の存在を抹消でもしない限りどうにもならないんじゃないか」
「まあ、そうだな。そのときは喜んでお前を抹殺させてもらうよ」
きらりと眼鏡が不気味に光った。ああ、なんという奴なのだろう。たとえ冗談だとしても彼の目は本気としか捉えることが出来ないのだから、心底、兢々としてしまう。
「やめてくれよ恐ろしい」
「違うね、お前のことを忘れてしまうくらいに彼女を深く愛する――、それだ!」
槻木は顔の前で人差し指を立てて一度振った。
「まあ、とにかく連絡もとれないのだし、くだらないこと考えないほうが心の健康にはいいんじゃないかな? さあ、仕事しようよ」
そうして僕らはバックヤードを出、開店準備に取り掛かった。シャッターを開けると、外は朝とは比べ物にならないくらい暑くて、その熱気が店内に一気に進入し、僕の全身を包んだ。最後に抱きかけたときの、晴実の体の熱を思わせた。
仕事からの返り、僕は「ジーザス」に寄ることにした。マスターに晴実と別れたことを報告しようと思ったんだ。なにか、癒してくれるような気がしたから。店には赤杉はいなかった。彼がいると、話がどうもややこしくなりそうな気がして、褒めたくはあったのだけど、僕には苦手なタイプの人間だった。
「やあ、ジントニックでいいのかな?」
「ええ」