君へ
少し馬鹿にされているような気がした。でも、なんとなく彼女の表情が無邪気で可愛らしくも思えたんだ。
「起きてるさ。それに、僕はいつもこんな表情なんだよ」
「あ、嘘ついた」
やけに馴れ馴れしい態度の彼女に、僕は晴実のことを話したくないということもあって、少し苛々とした。それでも僕は我慢し、怪訝な顔一つせず、トイレに行って来ると言って部屋を出た。廊下で少し深呼吸をし、外の空気を求め外出した。さっきまで白かった太陽はいつの間にか赤みを帯びていて、永原の車とにらめっこをしていた。僕は海が見たくなった。この民宿からだと少し歩かなければならず、それでも僕は海岸を求め歩いた。でも、夕日は僕が海につく前に沈んでしまったんだ。しばらくもすると辺りは闇をまとい、太陽に代わって輝きだした月を、僕は少しねめつけた。そのまま引き返すのも馬鹿らしく思え、とにかく海を見ようと歩(あゆみ)は止めなかった。途中、携帯電話が鳴って、それは永原からだった。海が見たかった、と言う僕の思いを彼はすぐに理解してくれて、気をつけろよ、とだけ言葉を残して電話を切った。
海岸は昼の喧騒とは打って変わり、静まり返っていた。プロ野球の試合が行われていないときの球場のように。スター選手は夏の太陽だった。
僕は優しく揺れる波を浜辺に座り眺めた。静寂の中にある小さな波の音。波は海面に映る星を静かに躍らせる。そっと目を閉じると、闇に眠る海と空を埋める小さな星々が瞼の裏に広がった。この瞼の世界と眼前に広がる世界は同じものだった。波が一つ寄せ、引いていくたびに僕の心の中からなにかが抜けていくような気がする。それは鬱積した負の思いだろう、となんとなく癒されているような気がして理解できた。
かなり遠くの波打ち際にちらちらと光る色を見た。それはやがて空に広がり、明るい火の粉を散らし、闇に滲ませた。小さな打ち上げ花火だった。花火の賑わいから離れるように僕は立ち上がった。ふと、遠くに僕と同じように立ち上がった影を見た。お互いに向かい合い、近づくように歩き、それは、暗くてよくわからなかったけれど、遠目には揺れる髪で女の子だと思えた。すれ違い様には、僕はその人を見た。その女の子は僕を見なかった。花火が上がった音がした。僕は女の子の向かう反対の方向へ、依然、歩いた。
波の音はとても心地よかった。でも、しばらくもすると海岸は花火をする若者達でごった返してきた。なんだか、感慨も失せて、代わりに空腹感が押し寄せてきた。夢の世界を漂っているときに、下の世界から母親に「ご飯よ」と声をかけられたようなそんな気分だ。ああ、なんてロマンの欠片もないのだろう。僕は、せめて自然を感じようと空を見た。雲が少し月にかかっていた。道路は静かだった。花火の光がたまに視界に入って、でも、本当に静かだった。少し、この時間を長く味わいたいと思い、ゆっくりと時間をかけて歩いたんだ。火の粉は星に届くはずもなかった。
部屋に戻ると、永原が一人で寝ていた。そっとしておくつもりだったけれど、ただ横になっていただけのようで、すぐに身体を起こした。
「珍しいね、女の子がいないなんて」
「もちろん夜も遊ぶさ。で、どうだった? 海は」
ずいぶん眠たかったのだろう、頭をかきながら欠伸をした。
「普通だよ。いや、それはあとになっての感想かな。最初は素敵だったよ」
「そうか。自分の中でなにか片付いたのか?」
「いや……それはよくわからない。よくわからないんだ」
「まあいいさ。ところで、ショートカットのあの女、えらくお前のことを気に入っていたようだぜ」
「まさか」
僕は失笑した。
「まさかもなにも、あの女がそう言うのだから間違いはないだろう」
「でも……僕はもういいよ。それより、お腹が空いているんだ。夕食は終わったのかい?」
「おいおい逃げるなよ。もう手配は済んでいるんだぜ? 俺が向こうの部屋に行けばあの女がここに来るんだ」
僕は正直、焦った。そんな展開になっているとは思ってもいなかったからだ。
「お願いだ、僕の心を理解してくれるのなら、やめてほしい」
「本気か?」
「本気だとも」
永原は仰向けになるように身を畳に倒し、馬鹿な奴だよお前は、と言った。
「ごめん」
「いや、いいんだ。それがお前のいいところかも知れない。しかし、そうやって頑なになるんだったら、もっと晴実を大切にしてやるべきじゃなかったのか?」
「――痛いほどわかってる」
永原は嘆息を一つ漏らした。
「わかった。あの女には俺から言っておいてやるよ。だから気にするな。俺もなんだか冷めちまったよ」
「ごめん」
「もういい、なにも言うな。食堂はまだ開いているはずだから、飯でも食って元気出してこい」
そう言って永原は部屋を出た。きっと彼女達に無理だということを告げに行ったのだろう。彼は、今までに女の子を手配してくれていたなんていうことはなくて、失恋の傷を癒させようとしての計らいだったのだろうけれど、僕にはやっぱり心に想う人がいて、そもそも、僕は晴実に失恋したわけではなく、この心を苛んでいるのは、晴実に対しての罪の意識だった。たぶん、それだけだろう。
なにかを食べる――、今はとてもそんな気分にはなれなかった。永原が部屋を出たあともずっと僕は独りで部屋にいて、その晩、彼は部屋に戻ってくることはなかった。遠くで少し、笑い声が聞こえたような、そんな気がした。
結局、僕はそれから彼女達と顔を合わせることもなく、知らない町をあとにした。
思えば、彼女から送られたメールは最初とそれから少し経ったときの二度のみだった。それ以外は全て僕から送った。メールを再開してからも変わらず僕の名前は、文面のどこにもなかった――。
ある日、彼女が同じ店に勤めている男とデートに行ったということをメールで知らされた。やっぱり、なにも進展していない僕にはなんの希望もないのだ、とショックだった。そして、やけになり、「僕ともデートしてくれ」と、駄目ならもう全てが終わるだけだと思いながらメールを送った。その返事は意外だった。「別に嫌じゃないよ」と拒むものじゃあなかったんだ。僕は嬉しかった。店以外では会うことを拒絶されていたという過去が、一瞬にして、ただの悪夢になったのだから。
それから数日経ち、ちょうどバレエのシーンがある映画の情報をつかんだ僕は、「一緒に映画でも観たい」という内容のメールを送った。しかし、なぜか、返事はなかった。このときに僕は悟ったんだ。彼女にとって夢より大切だといえる人は、きっと、同じ店で働いている人なのだろう、と。一瞬しか顔を合わさない僕が、どうしていつも一緒に働いている男に勝つことができようか! なにも方法などあるわけがない、なにも方法などないんだ!
返事のないことに対し、そして彼女の大切な人のことを感覚でわかったそのときに、僕は、一方的で意味もなかったメールをやめる決心を、以前のような生半可な気持ちではない決心を、そして、少しずつだったけれど未来での再会を願って書き続けていた小説さえも、捨ててしまおうと決心したんだ。