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ぱんぷきん
ぱんぷきん
novelistID. 38850
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君へ

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 部屋で晴実が、「あの人ってあんなに可笑しな人だったのね。人は見かけによらないなあ」と言った。僕は、「見かけそのままじゃないか」と言った。陰で人を笑うことや陰口を叩くということは、やっぱり気分のいいものじゃあなかった。だから今後は、彼のいい部分を見つけて、それを目一杯褒めてあげようと心に決めた。
 僕の酔いは赤杉との緊張のせいですっかり醒めてしまっていた。時刻は夜の十一時。なんだか全てがどうでもよくなって、僕は一人、先にベッドにもぐり込んだ。晴実はテレビをつけっ放しでなにかの本を読んでいるようだった。目を閉じるとやがて深い呼吸になり、僕の胴体から四肢にまでゆっくりとした脱力感が伝わった。心地よいまどろみの入り口だった。


 僕は他愛のない、内容のなにもないメールを数日に一回というペースで続けていた。もちろん、店にも通った。そして笑顔で迎えられた。
 最後には文壇に上がって再会しようと一人勝手に思っていたわけで、でも、すでに再会をしてしまったのだから、僕はどうすればいいのだろう、とその時は思っていた。そして、今はもう書いていない小説だけれど、あの頃はそれでもただ我武者羅に執筆を続けていたんだ。
 何日か間があって、久しぶりに店に訪れたある日、それから僕の送ったメールに、「あまり喋ってくれなかったね」という内容のメッセージが届いたことがあった。しかし彼女は、プライベートでも会ってくれる素振りを一向に見せず、僕があまり話さないのは他に客のいる店内で話すのがただ恥ずかしかったからで、気心の知れた友人と二人きりになれば僕は饒舌なのに、それを知らしめるチャンスさえくれないのだからとても歯がゆい思いをした。その思いも全て、彼女の笑顔がかき消してくれるのだけれど。
 当時の僕の思いを理解してくれていたのは唯一無二の友人の永原という男で、彼は二十四歳になっている今でもフリーターだったけれど、容姿端麗の美男子で、どこか影のある雰囲気が少し魅力的で、そして音楽をいつも孤独に心に奏でていた。書店で安定を求め働いている僕には、音楽家になるという夢を追いかけている彼もまた、バレリーナを目指す彼女と同じように輝いて見えた。
 ある日、永原と飲む機会が出来て、そのときに彼は僕を大変に勇気付けてくれた。しかし、同時に、恋することの虚しさを、報われない恋の切なさを語っていた。その陰鬱とした語りでさえ、彼が言うと、聖杯から一滴、小さな雫が湖面に落ちるかのように心に響いた。
 彼もまた、苦悩に満ちていた。僕らは酒の席で語りつくした。彼と酒を飲んだあとはいつも清々しく、晴れやかな気分になった。彼と別れたその日も僕は、彼女に会いに行った。晴れ渡った心に大輪(たいりん)の花を添えて。


 朝、ホットミルクをテーブルに置き、晴実を起こそうと身体を揺らした。彼女の髪は結ばれていて、暑さはこれからさらに加速するのだろうと思えたけれど、僕はとてもいい朝の目覚めの気分を感じていた。晴実はしばらくのあいだ布団の中でモグラのように蠢いて、その布団は盛り上がる土を連想させた。布団をめくると、晴実は上下とも白の下着姿だった。はっとして僕はすぐに布団をかけたのだけれど、晴実の滑らかな肌の質感に少し興奮を覚えてしまった。だけど、今は朝で僕らにはこれから仕事もある。欲情しようとも絡み合う時間はなかったし、それに、たとえ時間があったとしても朝から行為に及ぶというのもなんだか気が引ける。僕は、「早く起きて服を着なよ。それから朝食だ」と促した。よし、と晴実は気合を入れて起き上がった。顔を洗ってからホットミルクを味わう。「夏だし、やっぱり冷たいミルクのほうがいいかも」と言った。僕が、すぐにお腹を壊すじゃないか、と忠告すると、焼いてバターを塗っておいたトーストを頬張り、「そうだったわ」と納得していた。
 それから晴実は化粧を始めたのだけれど、僕は美しく完成された彼女を見届ける前に出社の時間となり、それじゃあ行って来るよ、とテレビドラマでよく見るような新婚夫婦の旦那を装った。
 仕事は相変わらず変化のないものだった。初めて万引きを捕まえて以来、この店は本当に万引き被害が多かったのだと理解できた。不審な態度を見抜く眼力を得た僕が、この店では日常的だった万引きの犯人を数名捕まえたからだ。学生や子供に主婦、はては老人までいた。何度も尋問をしているうちに僕は次第に事務的となり、憐憫の情など一切わかず、いつも警察を呼んだ。泣く者もいた。見せしめだとか本人のためを思ってだとか、そういう感情もなかった。ただの仕事の一部だった。中には、いわゆる「逆ギレ」する犯人もいて、そういう輩は槻木が相手をした。即座に言葉で一撃し、見事に相手を沈黙させる。精神的に追い詰められた犯人を見る彼の目は冷徹で、肉体ではなく心を確実に殺してしまうような、真の残虐性を秘めているようだった。そして彼は終始、万引き犯の精神崩壊までの道を楽しんでいるように見えた。それはまるで、赤ん坊を乗せた乳母車を坂の頂上から押し、やがて勢いをつけて下って行く様を、その最期を期待しているかのようでもあった。優秀な彼が医者でなくてよかったと僕は思った。彼は気に入らない患者をきっと殺すだろう、と感じたからだ。直接殺すのではなく、精神的に追い詰め、自殺させるかもしくは病状を悪化させるよう仕向けるか――。彼はやっぱり書店の店員であるべきだった。明哲の中に弁解を許さない畏怖を感じ、しかし無慈悲な鉄槌は犯罪者に対する態度のみだったけれど――、ああ、僕は嫌な人間だ。彼が人を殺すだろうなどと、僕は彼に劣等感を感じただけなのだ。事実、彼の理知を称嘆し、罪悪を嫌う実直な態度には尊敬の念を抱いていたのだから――。なにもない卑小な人間の妬みにも似た、光の当たらない夜の路地でただ光を待っているだけの苔の生えた鼠にでもなったかのような気分だった。僕は自己嫌悪した。だから槻木にちょっとした罪滅ぼしの意味も込めて昼食を驕ってやったんだ。
 仕事を終えて帰り際、初めて彼が僕を夕食に誘った。昼のお返しのつもりだったのかも知れない。でも、僕は断った。丁度、晴実からメールがあったからだ。晴実と僕の間ではほとんどメールも電話もしなかった。特に意味はなくて、いつも晴実が僕の部屋に勝手に来て、デートもそこから始まるからだ。時間は会っているときに前もって決めているし、遅れそうなときは、いや、時間通りに来ないときは遅れるのだと理解していた。それでも待つのは十分程度で済むのだからなにも問題はなかった。
 晴実からのメールはたんに、一緒に駅から帰ろう、というもので、なぜメールをしてきたのかと考えると、今日が晴実の誕生日だということを理解した。可愛いところもあるじゃないか、と僕は微笑みすぐに返信した。
「なるほど、彼女か。それは悪かった。大切にしてやったほうがいいからな。俺との飯はまた今度でいいさ」
作品名:君へ 作家名:ぱんぷきん