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ぱんぷきん
ぱんぷきん
novelistID. 38850
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君へ

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 煙草の煙で輪を作ろうと上に向けて吐いたのだけど、話に興味がないと悟られる前にやめた。
「それは当然有名人になるチャンスよ」
「はは、そんな簡単にいくものなのかい」
「さあ、わからないわ。でも、初めてのメジャー誌だし、やっぱり色々とチャンスだとは思ってる」
「そうか。でも、力みすぎて身体を壊しちゃいけないよ。なんとなく思ったんだけど、なにかを生み出す仕事ってのもいいのかも知れないなあ。才能があればだけど」
「そうね。ところでご飯は食べたの?」
「そういえばなにも食べていなかったな。君は食べたのかい?」
 考えると途端に空腹感がわいて、心なしかお腹もへこんだような気がした。
「あたしもまだなの。なにか作ってもいいけど」
「いいよ、冷蔵庫は空っぽだから。久しぶりにバーに行かないか? マスターも喜ぶよ」
「そうね、軽く飲むのもいいかも知れないわ」

 バーの中は珍しく客が一人もいなかった。マスターの表情は布で覆われているせいで判断できなかったけれど、きっと退屈そうにしていたに違いない。だってここにはテレビも音楽もなにもないのだから。
「おや、晴実ちゃん。久しぶりだね」
「ええ、どうも」
 カウンターに座り、ジントニックと、晴実はマッカランをロックで注文した。
「マスター、なにか小腹を満たすものを作ってもらえません?」
「時間はかかるけどかまわないかな?」
 ええ、と僕は返事をした。もともとこのバーは料理は出さない。しかし常連には特別に、まあ、簡単なものを作ってくれる。客が多くいるときはやっぱり忙しそうだから遠慮して、アルコール類や菓子類しか頼まないのだけれど、軽いものを作ってくれるという今日は少し幸運な日だ。お酒を作り、カウンターに置くと、奥の厨房らしきところへマスターは消えて行った。僕は黙ったまま一杯目を半分程度まで軽く飲んだ。
「ああしまった。煙草を忘れたよ」
 僕は全てのポケットを調べつくし、そう言った。
「いいじゃない。たまには我慢したら?」
 蝋燭の炎を映し出した晴実の目は、瞳の中に揺れる水の膜を泳がせているかのようにとても澄んでいた。
「綺麗だね」
 ――僕はなにを言ったのだろう。今、確実に晴実を褒めた。今まで付き合って初めてのことだった。これは客がいないせいだ。ああ、恥ずかしい。今すぐ蝋燭の炎を吹き消してしまいたい気分だ。
 晴実はなにに対し僕がそう言ったのかを確かめるように視線を合わせてきた。
「綺麗な紅い炎だ……」
 僕は瞬間に目をそらし誤魔化した。それでも晴実はたぶん気づいたのだと思う。なぜなら、カウンターに置いていた僕の手をそっと握ったから。僕らはお互いに見つめ合った。きっと僕は、晴実のことを好きになっているのかも知れない。晴実の手の温もりが、僕の身体の中を熱く巡るアルコールを少し勢いづかせた。
 しばらくし、一人の客が入ってきた。あの赤杉とかいうミュージシャン風の男だ。しかし、今日はいつも見る派手な革衣装とは違うスーツ姿だった。でも、首もとにはタトゥーが見えているのだけれど――。すぐにマスターも姿を表し、僕と晴実の間に湯気香る「じゃがバター」をとんと置いた。
「お、うまそうだな。マスター、俺にも同じものを作ってよ」
 赤杉はのぞきこむようにしてそう言いい、僕の隣に席を一つ開けて座った。
「すまないね、今日はこれで終わりなんだ」
 マスターは面倒臭がり屋なのかも知れない、と僕は微笑しながら思った。項垂れるようにしながら彼はハイネケンを注文し、僕も続くようにして二杯目を頼んだ。アルコールの入っていない彼は以前のように気軽に僕に話しかけては来なかった。
 半分に切られて二つになっていたじゃがいものそれぞれを僕らは少しずつ静かに食べた。晴実は美味しそうに頬張っていたけれど、僕は大して感想もなかった。
 やがて、続々と客が詰め寄せ、一気に店内は賑やかなものへとなった。晴実はまだ半分程度しか飲んでおらず、それほど酔っているようではなくて、長い時間マスターと談笑を交わしていた。やっぱりとても綺麗な横顔だった。
 今、ここは喧騒の世界だ。きっとこの雑音演奏会の世界の中では、貼り付けにされているキリストの仮面も愛だのなんだのと説くことはできないに違いない。僕は何杯飲んだだろう。ほの暗いこの店内のそのやかましさ――、目を閉じればまるで、都会のオフィス街の雑多を思わせる。きっと今に僕は車に撥ねられるだろう。ああ、僕の身体をつねる、叩く、次はなんだ、なにが来るんだ。不思議な痛みの感覚――千切れる、耳が――。そこで僕はようやく晴実が耳を引っ張っているということに気がついた。
「なにぼうっとしているのよ。ずいぶん酔ってるじゃない」
「あ、うん、そのようだね」
「帰る?」
「いや、大丈夫さ」
 僕は陶酔境と現実の境を行ったり来たりしているような心地よさに包まれていた。でも、それはすぐに赤杉によって引き戻されることになった。
「なあ、彼女にかまってもらっているところ悪いが、以前の話覚えてるかい? 人は人を求めるってやつさ」
「なんの話?」
 晴実が僕に尋ねた。
「ああ、一人でここに来た時にねちょっと色々と話したんだよ」
「ふうん」
「覚えてるけど、それがどうかしたんですか?」
「いやあ、あれから俺もちょっと考えてね、この足りない脳みそで」
 僕は彼の脳漿が足りているのかどうなのか、そんなことはどうでもいいことだ、と思った。
「それで?」
「うむ、人が人を求める――、それはやはり、人が人を求め人と人が出会わなければ、人が生まれず人類は滅びてしまうからだ、と思ったんだよ」
 根幹ではそうなのだろうけれど、なんてロマンのない人なのだろうと思わずにはいられなかった。きっと、この人は単なるリアリストでミュージシャンではなかったのだろう。
「それは凄い発見ですね!」
 僕はうんと嫌味をこめて大仰に言った。
「ははは、そうだろう? 俺もそう思うんだよ」
 隣で晴実がくすくすと小さく笑っていた。僕はこの笑いがマスターにまで伝染しないかということを危惧した。なぜなら、マスターは馬鹿な考えを披露した赤杉に突っかかっていくと思えたからだ。そうなると、彼は数秒もしないうちに撃沈されるだろう。これはボートと戦艦大和の戦いだ。そうして轟沈させられた赤杉はきっと僕の褒め言葉の真意をやがては読み取り、瞬時に抜き差しならないことになるはずなんだ。
 事はむしろ悪化した。懸念した通り、マスターは赤杉に論戦を挑んだんだ。僕は後悔した。いらないことを口走ったと自分自身を嫌悪した。すぐに、「客をいびるのはよくないよ」と言ったのだけれど、赤杉が「論破だっけか、そう、論破できるものならしてみやがれ、前の借りを返してやるぜ」と強がるものだから僕は帰りたくなった。しかし、ようやくマスターは、目配せを続けた僕の心根を理解してくれたのか、「まあ、それでも生物の本能をついた大した理論だ」と赤杉を褒めた。僕はまったく馬鹿らしくなったのと同時に、安堵した。どっと疲労感に見舞われ、僕達は店を出た。
作品名:君へ 作家名:ぱんぷきん