森の命
健次は、じっと由美子を見つめると、
「そうだな。今や熱帯雨林っていうのはどこも伐採が進んで少なくなってきているからな。できるだけ多く見ておくべきだろう」
と言った。
「じゃ、ついてきていいの?」
「その代わり、邪魔するんじゃないぞ。あくまで補助として働いてもらう。環境学を勉強しているなら、少しは役に立つことでもあろうだろうし」
由美子は、ぐっと力をこめ健次を抱き締めた。
「おいおい、そんなに喜ぶなよ。しかし、由美子、自分の仕事のほうはどうしたんだ。何の仕事で来たのか知らないが、ほったらかしていいのか?」
「ああ、あんなのわたしには関係ないことよ」
次の日、朝早くから由美子は健次と共に、現地のガイドが運転するジープに乗っていた。このジープには、由美子と健次と現地ガイドと堀田の四人が乗っている。もう一台ジープが後ろについて来ていて、他の調査隊員たちが乗っている。この調査隊のチーフは、健次だ。
クアランコクから、車で二時間は経っった。そろそろ目的の場所に着く頃だった。由美子と健次を含め一行は元気を漲らせていた。
準備は万全である。大きなリュックの中に食料や数々の器材を入れ、場合によってはテントを張り野宿する構えもできている。
目指す森林は、首都のクアランコクから車で二時間ほどしか離れてないのだが、現地の人々は、「秘境の地」と呼ぶほど別世界な場所なのである。
森は、鬱蒼としており、様々な生物が住む典型的な熱帯雨林だ。蒸し暑くコブラなどの毒蛇がいて危険なところでもある。現地の人々はあまり近づくことがないという。そして、森には一万年前からの狩猟採集生活を続ける先住民が住んでいるという。
ジープは、砂埃をまき散らしながら進む。この辺りにくると、クアランコクの町中とは違い舗装された道は全くない。周りは水田の広がる農村地帯だ。
数百メートル先に、緑の木々の群れが見えてきた。あれが目指す熱帯雨林だ。ちょうどそこで水田地帯が終わっている。秘境の始まりである。
ジープは、ついに目的地に着き、止まった。すぐ目の前に、大きな森がある。それは、まるで緑の大きな怪物が由美子たちを恐がらせながらも、迎え入れてくれるような雰囲気であった。
ジープから下りると由美子は、今までにない興奮を覚えた。熱帯の森は、ハワイにいたときも大学の研究で何度も入ったことがある。森に入る前というのは、いつだって晴れやかな気分になる。そして、森に入ればさらに晴れやかさが増す。そこで緑の神秘と接することができるからだ。森とは、人間をそんな気分にさせてくれる場所だ。
隊員たちは、全員ジープを下りた。リュックを背負い、森に目を向けている。
近くに警備員が数人、たむろしていた。この森一帯は、スワレシア政府の所有する国有地であり、ちょうど、警備員たちのいる場所が正式な入り口となっていた。
堀田が、さっそく警備員に話しかけている。由美子は森をじっと眺めた。熱帯雨林について大学で習ったことを思い出していた。
緑の生い茂った力強い木々が寄り集まっている姿は感動を与える。この森の中には数え切れない種類の生物が生息する。地球の動植物の種の三分の二が熱帯雨林で生息しており、まだ未発見なものも数多くいるのである。そんな多くの生物を育て守り抜く力を熱帯雨林は持っているのだ。
また、熱帯雨林の木々の葉など緑葉植物は、日光に当たると二酸化炭素を光合成といわれる作用で、人間や動物が生きていくために欠かせない酸素へと変える役割を持っており、地球の肺ともいわれている。
だが、同時に熱帯雨林はデリケートでもある。人間の犯すほんのちょっとした伐採や火事などで姿は崩れ、一度破壊されると再生は大変難しいのである。
伐採や火事で木々の消失した森の土には、新たなる植物が成長するための養分がほとんど残されていない。熱帯雨林には、大雨が降り、土の養分は、その度にほとんど流されてしまう。その上、残った養分は、強い日差しと高温による激しい植物の光合成作用によって一気に吸い取られてしまうのだ。
しかも、そんなデリケートで再生の難しい熱帯雨林は、現在、急速なスピードで地球上から消失していっている。二十一世紀中頃までに地球上から全く姿を消してしまうことにもなりかねない程だ。
「なんだと!」
健次の叫ぶ声が聞こえた。堀田と二人で警備員と話している。
由美子は、二人に近付いた。
「どうしたの、一体?」
健次が、たじたじと言って答えた。
「大変なことになった。警備員が言うには、もう俺たちはこの森に入れないそうなんだ。何でも、ここは政府から日本企業に譲渡されて、その企業の許可がないと入ることができなくなったんだ」
由美子は、警備員のほうを見た。手にはライフル銃を持って、いかめしい表情をしている。
由美子は、つかつかと大股で歩いて近付き、警備員に英語で話しかけた。
『いったいどういうことなの? この森が日本企業のものだって。ここはスワレシア政府の所有する土地でしょ。この森をどうしようというの?』
『ここに水力発電所を建てると聞いています』
『発電所を建てるですって。すると、この森の木々を切り倒すってこと』
『その通りです。発電所を建設しますし、また、この周辺はすべてダムとするため水没します。来月にも建設が始まります。そのために、この森は関係者以外立入禁止となっているのです』
由美子は、発電所という言葉にさっと頭によぎるものを感じた。そして言った。
『発電所を建てる日本企業というのはどこなの?』
警備員は、すぐそばにあった看板を指差した。看板は地面に杭を差して立てかけてある。まるで、この土地の番犬にでもなったかのようだ。
看板には英語でこう書いてあった。
『これより先はアケチ物産の水力発電所ダム建設予定地のため関係者以外立入禁止。立ち入った者は厳罰に処す』
由美子の思ったとおりだった。飛行機の中で英明が言っていた水力発電ダム建設とは、目の前にあるこのことだったのだ。
由美子は、ジープに向かって走った。ジープの運転席に乗り込んだ。
「由美子、何するつもりなんだ」
健次が、言う。
「待ってて、すぐにこの森にみんなを入らせるようにするから!」
由美子は、キーを回しエンジンをかけた。ジープは、クアランコクに向けて発進した。
二時間後、ジープは、クアランコク・パレス・ホテルに着いた。
由美子は、車を乗り捨て走り、ロビーを抜け、エレベーターに乗りこんだ。
最上階に着いた。
駆け足で英明のいるスイートルームへ向かった。
由美子は、ドアをガンガンと叩いた。
ドアが、さっと開いた。英明がそこにいた。
「やあ、由美子さん。何かご用ですか。そんなにドアを叩いて」
「とっても、大事な用があるの!」
由美子の口調には、トゲがあった。
「ほう、しかし、どんなご用であろうと嬉しいことですね。あなたの方からこの部屋にわざわざ来てくださったのですから。いつ来てくれるのかと心待ちにしていましたから」
英明は、にやにやしている。由美子はその顔を見ているとたまらなくむかついた。
「森を壊して、ダムを造るつもりなのね」