森の命
英明は、体が震えた。怒りで体が震えたのだ。環境保護団体とは、英明が、この世でもっとも軽蔑視する集団だ。彼らは、無知で妄想に取り憑かれた理想主義者たちだ。自然保護などという文句を使って、会社の事業の邪魔を徹底してしたがる。そして、利益追及で生きている資本家を悪魔呼ばわりする。自分達が、この世で唯一の正義漢とでもいいたげな顔をする。もっとも一番の悪魔は、奴らだ。
自分達の毎日の生活が、どれだけ環境破壊に基づいて支えられているのかまともに知ろうともしない。集会に行くのに乗る車、それが出す排気ガスが、どれだけ大気を汚染しているか。熱帯雨林の伐採反対だと、その伐採された木で作られた家具のある家で普段は優雅にくつろいでいるくせに。
どの道、奴らはただの愚か者でしかない。一つの建設事業が波及する経済効果というものは、多大なものだ。周辺の住民には職を提供出来る。スワレシアの産業は、膨大な水と巨大な発電源を手に入れることによって、さらなる発展を遂げることになる。周辺の住民には、優先的にダムでの職と当面の保障金を提供する。貧しい農村暮しより、ずっと割りのいい給料がもらえるのだ。反対する気などすぐに失せてしまう。環境保護団体は、祭りで騒いでるように「反対、反対」を唱えるだけ。いずれは飽きて立ち去るだろう。
英明は、スワレシア人の部下の方を向いて言った。
「君、すぐにブルドーザーとその他、伐採のための準備を指示してくれ」
「しかしまだ、建設開始日には、間がありますが」
「待ってなんかいられないさ。愚か者どもにさっさと現実を教え込ましてやりたいんだ」
英明は思った。これはいい機会だ。どうせなら派手にやろう。派手にやって世間の注目をこれまで以上に集めるのだ。そうすればあの女、由美子は正義感に苛まれ、解決策として自分と結婚するしかないことを思い知るだろう。
東京 野村総合病院の特別室
丸二日間、父に寄り添い、さすがの由美子も疲労困憊であった。
由美子は、弱りきった父、清太郎の姿を見て、これまでになく胸が詰まる思いだった。守ってやれるのは娘である自分一人しかいない。こんな頼りない自分しかいないのだ。
バンっと、病室のドアの開く音がした。由美子は、仰天した。
「健次、あなたどうしてここに?」
「大事な彼女が苦しんでいるんだ、すっ飛んで来たくなるさ」
健次は、由美子を真剣な眼差しで見つめ言った。
由美子は、涙がこぼれ出た。そして、さっと健次に抱きついた。
「健次、わたし、辛いわ。今まで自分は世間のこと何にも知らず、お父さんに頼りきりになって生きていたの。そして、今は、お父さんに何にもしてやれない。何をすればいいのかさえ分からないのよ」
「由美子、安心しろ。俺がついている」
健次は、涙で顔の濡れる由美子を抱き寄せた。
「う、う、、由美子、由美子」
と清太郎の弱々しい声が聞こえた。毛布から手を伸ばしている。
「お父さん、どうしたの、私よ」
由美子は、さっと清太郎の手を取り握った。
「由美子、すまない。もう駄目だ。おまえには、あの会社を残す。英明君と助け合ってやってくれ。」
「お父さん、私のことや会社のことなんて心配しないで。自分の体のことだけ気遣って。きっと良くなるわ。元気を出して」
「由美子、もういいんだ。わしは、十分生きた。おまえのような娘がいて、すばらしい人生を送れたよ。もう何も悔いはない」
「やめて! そんなこと言わないで。お父さんは死んだりしないわ」
由美子は、必死に叫んで言った。
「由美子、この人は?」
と清太郎が、健次の方を見つめ言った。
「あ、僕は、由美子さんの友人です。健次といいます。はじめまして。突然の御訪問で大変申し訳ございません」
健次は行儀よく挨拶をした。
バタン、とドアが開いた。看護婦と警備員が入ってきた。
「この人です。勝手に私たちを振り切って病室に入ったのは!」
と看護婦が、健次の方を指差して言った。
警備員が、健次に近づき、腕をつかんで引きずった。健次は、警備員の引きづるまま素直に廊下へ出た。由美子も、引きずられる健次の後をついて行った。
「待って、この人はいいのよ」
と由美子は声をかけ、看護婦と警備員に健次が自分の友人であることを説明し、健次を解き放させた。
「全くもう、大胆なことをするんだから」
由美子は、怒った表情を見せた。健次と由美子は、病院の廊下の片隅にある小さな待合室に二人きりとなった。
「あいつらには、何度も説明したさ。由美子にとって俺が一番大切な男だって。だが、全然信じてくれなかったんだ」
由美子は、思わずクスっと笑ってしまった。ここ最近は、笑う気分など全然なれなかったせいか、何とも不思議な気分だった。
「由美子、日本に帰ってきたのは、おまえに会いたいがためだけじゃない。おまえの親父を助けることが出来るかもしれないと思ったからだ」
由美子は、健次の言っていることが信じられなかった。
「うそ、そんなことができるの? 言っておくけど父は末期癌なのよ」
「そんな大病人さえ治せるかもしれない薬を持ってきたんだ!」
健次は、着ていたジャケットの内ポケットからビニル袋を取り出した。ビニルの中には、水に浸した数本の草が入っていた。
「これが?」
由美子は、不可思議な表情でそのビニルの中の草を見つめた。由美子には、ただの雑草としか見えなかった。
「由美子さん」
と野村院長が現われた。
「野村さん、どうしたんです?」
野村は、何かを由美子に訴えかけるような表情をしている。野村にとって初めて会う健次のことが気になっているのかと思い、紹介しようとしたが、野村は、目の前の安藤のことは気にも留めず、待合室に置いてあるテレビのスイッチを入れた。
「見てください。お父様の会社のことをやっています」
つけたチャンネルでは、ニュース番組の生中継が放送されていた。マイクを手に持ちながら話すリポーターが、ある場所のデモの様子を背景にして立っている。見覚えのある場所だった。
「私は現在、スワレシアは首都クアランコクから車で二時間のところにあるダム建設予定地に来ています。ご覧の通り、この一帯は熱帯雨の森で、建設に当たっては当然のこと、木々は伐採されます。農業を営む周辺住民や森の中で暮らすペタンと呼ばれる先住民の人々は立ち退きと移住を強制されています。スワレシア政府は、建設計画を実行のほんの二か月前まで隠していたため、突然の発表に住民から怒りの声が上がりました。そして、今その怒りが爆発し、村の住民やスワレシアと日本と欧米の環境保護団体が、反対デモを繰り広げている模様です」
由美子は、自分が不思議な心の感触を受けているのに気付いた。父の会社が建てるダム建設予定地が、反対デモを受けている。それが、テレビのニュースとして報道されているのだ。こんな素晴しいことはないと、感激しているのだ。戦いの芽がやっと出たことを知った喜びだ。
「由美子さん、大丈夫ですか。立て続けにとんでもないことばかり」
野村は、心配そうに由美子を見る。由美子は、にっこりと笑い言った。
「私は平気よ。全然、平気だわ!」