森の命
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
「ちくしょう、せめてサンプルだけでも」
健次は、草の入ったビニル袋を手に取った。さっとドアを開け、実験室を出る。
二人は、大急ぎで廊下を走った。研究所の火災報知器が鳴り響いた。
研究所の表玄関にまでたどり着いた。ドアを、さっと開け外に出る。むっとする夜の熱気が二人を包みこんだ。二人が、ふと立ち止まると。
その瞬間、パン、パン、と何かが炸裂する音が聞こえた。銃声だ。自分達目がけて撃ち放たれたているのだ。
二人は、また走る。
パン、パン、銃声はまた続く。銃を持った男達が、暗い夜道から追いかけてくるのが見えた。
二人は、ひた走る。
パン、パン、パン、恐怖の音は追いかけてくる。
「うわあ」
と堀田が叫び声を上げ、どてんと倒れた。
「堀田!」
と健次が、はっと振り向くと多量の血を流す堀田の姿があった。銃の弾が当たったのだ。背中から腹部を貫通し、重傷だ。
健次は立ち止まり、応急処置を施そうとした。だが、銃を持った男達は、容赦なく追いかけてくる。このままそばにいれば自分もやられてしまう。
ウイーン、ウイーンと、消防車のサイレン音が聞こえた。
銃を持った男達は、突然現れた消防車を見ると、立ち止まり、もと来た道を折り返すように走り去った。
一時間後、健次は、国立クアランコク病院の手術室の前にいた。堀田が、救急車で運ばれた直後から、緊急手術が施されていた。
健次は、恐怖に震えていた。自分も一つ間違えれば、同じ目に遭っていた。そのうえ、命を狙われるのはこれで二度目だ。一体誰が? いったい誰が自分の命を狙っているのか。その上、研究所を火事にまでして、せっかくの実験データを焼失させた。自分達の研究を台無しにさせたのだ。いったい誰がそんなことを? 何の目的で? 健次には皆目、見当がつかなかった。
そんなことを考えながらも、健次は堀田のことが心配でならなかった。自分のせいでとんでもない目に遭わせてしまったみたいだ。そのことが、胸にどっと、のしかかってくる。気が付いてみると、恐ろしいまでに体が疲れていた。張りつめた緊張感のせいだ。突然、眠気が健次を襲った。
起きると、そこはベッドの上だった。手術室前の廊下の長椅子でなく、朝陽の差し込む病室の中だった。
いったいどうなったんだと、頭を混乱させていると、一人の看護婦が入ってきた。
「こんにちは、日本の人。昨日は大変だったわね。とっても疲れていたのね。ぐっすり眠っていたわよ。目覚めにはこれを飲むといいわ」
看護婦は、にこにこと健次に英語で話しかけた。右手にはコーヒーの香りが漂うカップを持っている。
「いや、どうもありがとう。なんとか、回復したような気がする。ところで、ぼくの友人はどうなりました?」
「ああ、あの人なら大丈夫ですよ。撃たれたところは急所を外れてましたし、手術は成功して、何とか危険な状態は脱しました。まだ、あなたの何倍も休息が必要な身ですけどね。とにかく、命は取り留めたんだから安心してください」
看護婦は、にこにこしながら言った。健次はコーヒーを受け取ると、ぐいっと飲み込み目をぱっちりと開けベッドから飛び出した。。
健次は、堀田のいる病室に向かった。病室の前には、警察官が一人立っていた。それは、護衛のためだった。健次が、警官に自分のことを話すと、すぐに病室に入れてもらえた。
堀田は、青ざめた顔で、じっとベッドに横たわり体には点滴用の管を何本か注射させられていた。だが、健次を見ると、目をぱちりとさせた。
健次は言った。
「すまない、堀田、こんなことになってしまって。よく分からないが、どうやら俺が原因みたいなんだ。おまえは、運悪く巻き込まれてしまったみたいでな」
堀田が口を開けた。小さく枯れた声を出す。
「大丈夫さ。俺のことより、それよりもおまえは大丈夫なのか。ここにいてはかえって危険じゃないのか。日本に戻った方が安全だ」
「何言ってんだ、堀田! 今、おまえのことをほっておけるわけないだろう」
「お、俺は大丈夫と言ってるだろう。どうだ、彼女に会いに行ったらどうなんだ。彼女のことが心配だろう。お父さんが大変なことになっているのならなおさらのことだ。何か役に立つかも知れない」
堀田は、そう言いながら真剣な眼差しを健次に送る。
健次は、片手に薬草のサンプルを入れたビニル袋を握り締めていた。
「ミスター・イシダ、大変です」
と秘書がドアを開け、書類を読んでいた英明に駆け足で近寄ってきた。手には雑誌を持っている。
「どうしたんだ。突然、ノックもせず入って来て、何事だ」
「この記事を読んでください」
秘書は、雑誌を手渡した。ニューズマンツリーという有名なイギリスの雑誌だ。この雑誌は世界中で読まれている。英明は、不安を覚えながら、さっとページを開き、その英文の記事を読んだ。記事のあるページには、見覚えのある場所の写真が載っていた。
英明は青ざめ、仰天した。
記事の見出しは、『スワレシア政府と日本企業の企む環境破壊と人権侵害』だった。
その日本企業の名前は、アケチと実名で記されている。ダム水力発電所建設計画に関係して起こった様々な出来事がこと細かく記述かれていた。
そもそもが計画の発表が建設予定日の二ヵ月前という突拍子もない時期であったこと。周辺に住む地元住民の反対集会を政府が力で抑え込み中止させたこと。周辺住民や森の中に住む原住民を無理矢理立ち退かせようとしていること。また、膨大な面積の熱帯雨林が伐採される運命にあり地球にとってはかけがえのない自然の宝庫が失われていくことなどが事細かに記されていた。
記事の内容は、明智物産にとっては、とんでもないイメージダウンとなるものだった。国際的批判を受け、これからの業務に支障をきたすことは間違いない。
だが、まさかダム建設が中止にはなったりするまいと英明は思った。
反対など、最初から予想されていた。だからこそ、ぎりぎりになって計画を公表したのだ。莫大な金がすでに動いている。明智物産は、スワレシア政府から、巨額の建設費用を受け取っている。そして、、明智物産は、あの通産大臣に、自分を通して莫大な賄賂を渡したのだ。
日本国内の事業では慣例としてきたことだ。役人に賄賂を渡し、自分達の企業に便宜を図ってもらうこと。公開入札などと称しながらも、落札できる相手は事前に決まっている。日本企業は、外国に出ても、同じことをやるのだ。今度のダム建設入札も、そのいつものありきたりのやり方で仕上げたことだ。
とんでもない事態が起こるようであれば、あの通産大臣にまた頼もう。あの男は、金を渡せばどんなことでもやってくれる。この事業は、何としてでも成功させなければ。これらすべて会社のためだ。いずれ自分のものとなるあの会社のためなのだ。
ドンっと、男が入って来た。スワレシア人の部下である。
「ミスター・イシダ、大変です。建設予定地の周りで地元住民と環境保護団体のデモが行われています」