森の命
ザー、ザー、と激しい雨の降り注ぐ音が聞こえる。これは熱帯地方特有の雨、スコールだ。短時間に滝のように降り注ぐ大雨だ。
ポタ、ポタっと、水滴が健次の顔に落ちてきた。雨漏りだ。天井から、水の雫がどんどん落ちてくる。健次は、体を動かして、よけようとした。だが、体が思うように動かない。体が、重くて動きにくいのだ。何だか体中に熱を感じる。かなり気分が悪い。
ああ、そうだ、自分は、コブラに噛まれ死にかけているのだ。もうだめだ。誰がこんなところに連れてきたのか知らないが、自分はすでに死ぬ身にあるのだ。死の恐怖が、健次を襲った。
「目を覚ましたのかい? 大丈夫かい?」
と英語で、誰かが自分に話しかける声が聞こえた。誰だ? と思いつつ、健次は、力を振り絞り叫んだ。
「ノー、ヘルプ、ミー」
その人物は、健次の体をさっと動かした。すると、雨漏りの水滴が、顔に当たらなくなった。
「すまないな。天井に穴が開いてしまって。ところで気分は、良くなったかい。そうだ、もう一杯薬を飲ましてやるよ。まだ、気分は悪いだろうが、じきに良くなるさ。この薬は効くんだから。現に、今生きていられるのもこの薬のおかげさ」
健次の口に男が木でできたコップのようなものを近付ける。健次は喉が乾いていたせいか何の抵抗もなく口を開くと、コップからどろっとした液体のようなものが流し込まれた。味を感じる前に、どんどん口から喉へと流れていく。
健次は、目を開き男の顔を見た。気分が悪いから、ぼんやりとしか見えないのだが、この男の顔には見覚えがある。どこかで会ったことがあるはずだ。目、鼻、口などの細かい部分がぼやけていても、輪郭、それに頭の両側を剃り真ん中でまとめた特徴ある髪型には、見覚えがある。
「ゲンパ、ゲンパだろ。俺、君をクアランコクの市民会館で見たよ。やはりここに住んでいるんだな。ところでだが、どうして俺はここにいるんだ? 俺は蛇に噛まれたはずだが、どうなったんだ?」
と健次は英語で話しかけた。
ゲンパは、言った。
「君が、蛇に噛まれて死にそうだったところをたまたま仲間が見つけた。急いで、薬を飲ませ、解毒した。今、毒は消えたが、体の痺れだけが残り苦しいんだ。だが、それもじきに治まる。安心してくれ」
「コブラの毒を解毒したのか」
「そうだ、我々部族が古くから使っているものだ。草をまぶし液体にしたものだ。コブラの解毒だけじゃなく、他のいろいろなな病気になったときに効く」
「何だって、血清ではなくコブラの毒を解毒する薬を草から取ったって? そんな草どこに生えているんだ?」
「木に登ると見つかるさ。木の上の方にある枝に生えてる草さ」
「木の上に草が生えている? そうか、鳥や風が種を運び空から落ちてきて寄生する植物だな!」
健次は、ついさっきまで重苦しかった体と気分がどんどん軽くなっていくのを感じた。
由美子は、スイートルームで窓の景色を眺めていた。
激しい雨が、降りしきっている。そのスコールを見ながら、抑えがきかないほど不安な気持ちで一杯だった。
今朝は、大混乱だった。ホテル中を探し回ったが、見つからなかった。警察を呼ぼうとも思ったが、騒ぎを大きくするのは良くない。何か特別な事情があって、健次が伝言を残さずどこかに出かけたとも考えられるのだ。
いずれ由美子か隊員の誰かに連絡を入れるかもしれない。今日一日はそれを待とう。そういう結論になり、当然のこと、今日の森林探索は中止となり、一同は健次からの連絡を待つこととなった。
由美子は、嫌な予感がしてならなかった。今回の森林探索は、当初から様々なことが絡み合い、きな臭い雰囲気が常につきまとうのだ。
まさか、健次の身にとんでもないことが? 由美子は、目から涙がこぼれてきそうだった。ハワイで過ごした健次との日々が思い浮かべられる。楽しかった二人だけの思い出が。まさか、まさか。
健次は、気分がすっかり良くなり、ゲンパと顔を向き合いながら座っていた。空は、真っ赤に焼けていて今は夕方だ。腹が減っているのを感じてきたる。むんむんと湿気をたっぷり含んだ生暖かい空気が体を包んできて、とても心地よい。そんな心地良さが空腹感を誘う。
健次は思った。今まで、何度かインフルエンザや胃潰瘍などで病気をしてきたが、その後の病み上がりの状態が、今以上に心地良かったことはない。数倍の解放感を感じるのだ。コブラの毒から解放されただけでなく、体の他の部分も癒されたような気分だ。むしろ、以前よりも体の状態は良くなった感じがする。自分が飲まされた草の薬は、ただならぬものだと確信した。
「ゲンパ、こんな薬があったことをどうして君達は世間に知らせなかったんだ? コブラの毒を血清以外に解毒できる薬が森の木の上にあったなんて!」
健次は感動を込めて言った。
「僕達にとっては、毎日、普通に使っている薬草さ。外の人達が珍しがるとも思えない」
「ああ、そうだな。だが、もしこの薬草にとんでもない効果があれば、君たちの住む森も守れるかもしれない」
「さあ、ケンジ、腹が減ってるだろう。妻と母ちゃんが、おいしい夕飯をこしらえてやる。明日になれば、おまえを町へ帰してやるからな。その前に元気をつけるんだ」
健次は思った。何が何でもゲンパ達の住むこの森を守らなければ!
次の日の昼、由美子と隊員一行は、現地の警察に健次の捜索願いを出す決心をした。もう丸一日以上行方不明なのだ。健次の身に、とんでもないことが起こったとしか考えられない。
由美子たちは、警察署に向かおうとした。
その時だった。ロビーの玄関前で、思わぬ事が起こった。
「由美子!」
由美子は、その声に振り向いた。
「健次!」
そこにいたのは、まさしく健次だった。ずっと行方を心配していた健次なのだ。
「あなた、どこにいたの。みんな、ずっと心配してたのよ」
由美子は、目から涙がこぼれてきた。さっと、健次に抱きついた。
「由美子、そんなに泣くなよ。俺は、どうにもなっちゃいないぜ。それよりも、おかげでいい発見をしたんだ。もしかすると、あの森を守れるかもしれない」
健次は、手に草をたくさん詰めた大きな麻袋を持っていた。
健次は、由美子と調査隊員の前で、こう説明した。
健次が夜になって急に森へ行きたくなり、車を飛ばして森に着いた。ところが、森の中でコブラに咬まれてしまい、死にかけたが、ペタン族のゲンパに出会い、この草をすりつぶした液を飲ませてもらい命をとりとめ助かったこと。
この草は、あの森林の木の上の方に着生する雑草でかなりたくさんあること。コブラの毒を血清に変わって解毒できたほどだから、何か他に医学的な効用があるかもしれないのと考えたこと。
皆、由美子も含め健次の話に唖然としていた。いくら健次が無鉄砲な性分の男だとしても、暗い夜にあの森まで行くのだろうか。それに、こんな雑草みたいな草が、本当にコブラの毒を解毒できたのだろうか?