森の命
「社長、検査に行かれたとお聞きしましたが、いかがでございましたか?」
英明は、遠慮深い口調できいた。
「なあに、たいしたことはなかった。今までの仕事の疲労が貯まったためだということだった。もうわしも年だ。無理はできん。当分は商用で遠出するようなことは控えなければな」
明智は、医師には一切公言は慎むようにと注意をしてきた。明智物産社長が、癌で半年の命ということが知れ渡れば、社内はもとより財界全体が大騒ぎとなる。余計な混乱は避けたかった。とくに今は、いままでにない大規模な事業をすすめている最中でもあるのだ。
いくら最も信頼する部下の英明であろうと、また娘の由美子さえにも話すことは出来ない。今はそんな大事な時期だ。
「それは何よりです。体調がお悪い様子でしたので、ずっと心配でした。これからは、あまり無理をなさらないでください。私で出来ることがありましたら、社長の負担を少なくさせることは出来ますので」
「それはありがとう、英明くん。だが、もう心配はいらんよ」
明智は、ぐっと気合いを入れて答えた。
「ところでですが、社長。今回のプロジェクトの書類には目を通されましたでしょうか」
「ああ、一通りな。土地の選定は決定したんだろう。最終処理は、君の仕事だったな」
プロジェクトというのは、スワレシアという東南アジアの新興工業国の首都周辺に予定されている水力発電ダム建設のことだ。完成すれば貯水量、供給電力量ともに東南アジア最大規模のダムとなる。
「計画は、順調に進んでおります。スワレシアの大統領が発案し、国家総動員の事業なのですから」
「ところで、英明くん、由美子のこと考えてくれたかね」
明智は、突然、話題を変えた。
「社長、考えるもなにも、願ってもないお話です。お嬢様のような素敵な方と一緒になれるのですから」
英明は、大きな笑顔を作って言った。
「そうか、それはよかった。私もこれで少し肩の荷が降りる。娘には君のような男に面倒を見てもらう必要がある」
明智は、満悦の笑みを浮かべて言った。
「ところでお嬢様は、今日、ハワイからお帰りになるそうで」
「ああ、そうだ。まったくあのじゃじゃ馬娘、五年ぶりにやっと日本に帰ってくるんだ。何だか、あっちの大学で環境学とかいうわけのわからんことやっておって、結局は遊びほうけてばかりいるんだ。日本に帰ったら、この会社で働いて、みっちりしこまなきゃな。英明くん、頼んだよ、由美子のこと」
「お任せください、社長」
英明は自信あり気に顔をほころばせた。
「そうだ、英明くん。今日は、会議に出席せんでもいい。由美子を成田に迎えに行ったらどうだ」
「いえ、社長。それが、半年前、ハワイにお嬢様を訪ねましたところ、帰国の際は、迎えになど絶対来ないでくれと言われまして」
「なんだと、由美子の奴、君がわざわざ迎えにくるというのに、そんなことを。けしからん!」
「社長、もしかしたら、由美子さんは照れてらっしゃるのではと?」
「あの娘に照れることなどあるか!」
明智は怒りを込めて言った。娘の由美子にはまったく困ったと、せっかくの肩の荷が重くなってしまった。
英明は、明智と会議の打ち合せを済ませた後、社長室を出た。
副社長室のある階へ戻るエレベーターの中で英明は背広のポケットから、携帯電話を取り出した。ある番号を押す。
「野村総合病院です」
と事務員らしい女性の声が耳元に響いた。
「野村院長を頼みます。石田と伝えて下されば分かります」
しばらく待つと、英明は言った。
「やあ、院長さん、それで検査の結果はどうだったんだ?」
野村院長の発する言葉を耳元で聞く。そして、
「そうか、やっぱり、癌だったのか!」
英明は、満悦の笑みを浮かべた。
成田空港に一機のジャンボ旅客機が着陸した。八時間もの時間をかけてハワイのホノルルからやって来た飛行機だ。
着陸から約三十分後、税関と入国手続きを済ませ、第二ターミナル到着ロビー出口から、一人の若くて美しい女性が現れた。
ハワイと違い、今、日本は冬だ。ハワイで着たままの軽装では肌寒い。だが、女性は満足気に外の空気を吸った。彼女にとっては、五年ぶりに味わう空気だ。手を挙げ、タクシーを止めた。
彼女は、さっそくタクシーに飛び乗った。
「横浜にある国際医薬研究所までお願いします」
タクシーは、成田空港から横浜市へと向かった。
約一時間後、タクシーは、横浜の国際医薬研究所に着いた。
タクシーを下り、女性は久しぶりの日本円で料金を払い、スーツケースを引っ張り研究所の玄関入り口へ急いだ。
「すいません、こちらに安藤健次という人が働いていませんか?」
受け付けには、大きな眼鏡をかけた中年女性が座っていた。
「あ、安藤先生ですね。今、第三実験室にいらっしゃるはずですよ」
と受付の女性は答えた。
スーツケースを受け付けに預け、エレベーターに乗り安藤のいる第三実験室へと向かった。彼女は、浮き浮き気分だった。
第三実験室と書かれてあるドアの前に着くと、ノックをした。
「どうぞ」
これは、聞き覚えのある男の声だと思い、彼女は、ドアを開けた。
「アロハ、健次」
安藤は、驚きの目を向けた。たった今までにらめっこしていた顕微鏡から目を離したところだったのだ。
「由美子、何だ、帰ってきたのか!」
「そうよ、成田に着いた後、さっそくここに直行したの」
彼女の名前は、明智由美子。明智物産社長明智清太郎の一人娘である。五年間のハワイの大学留学を終え、帰ってきたところだったのだ。そして、恋人の安藤にさっそく会いに来たところである。
安藤健次は、薬理学者である。そして、国際医薬研究所に籍を置く研究員である。年令は二十九歳。背が高く、眼鏡をかけ、精悍な顔立ちをした青年だ。
一ヵ月前までは、ハワイの研究所にいた。由美子とは、二年前にオアフ島のサンセットビーチで初めて知り合った。サーフィンをしていた健次にジェットスキーをしていた由美子がぶつかったことがことの発端だった。
運よく二人とも怪我はせずにすんだが、健次のサーフィンボードが、ぶつかった衝撃で割れてしまい、由美子は、弁償をしなければいけなくなった。
だが、そのことで二人の交際は始まった。
健次の仕事は、不治の病とされている癌やエイズを治療する薬の製造を研究すること。国際医薬研究所は、世界中に支部があり、医薬品メーカーや政府の支援を受け成り立っている研究機関だ。健次は、日夜、新薬の研究開発に励むスタッフの一員であった。
「ねえ、一ヵ月ぶりでしょう。さっそく、一緒に食事でも行かない?」
「ああ、駄目だ、由美子。今夜はミィーティングがある。明日の朝早くクアランコクに発つんだ。長期の出張になる。その打ち合せなんだ」
「クアランコク、それって、東南アジアにあるスワレシアっていう国の首都でしょ。そんなところにどうして?」
「研究のためさ」
健次は、ぶっきらぼうに答えた。
「もう、せっかく会えたのよ。それなのに、また離れ離れになってしまうの」