森の命
走り去るリムジンを見ながら由美子は思った。父、清太郎は、どうしてあんな男を信頼する部下として慕い、自分と結婚させようとするのだろうか。彼が優秀なビジネスマンで会社の売上げを増やしているからだからなのだろうか。父は、そんなことを基準に人の価値を判断しているのだろうか。
実際の話、自分が英明と結婚しても、この森は守れない。英明と父は喜ぶだろう。だが、英明のことだ。何だかんだと理由をつけて結婚の後、建設を実行するだろうし、仮に明智物産がダム建設に身を引いても、他の企業が代わりを引き受けることとなる。そもそも、発電所建設は、スワレシア政府が首謀となってやろうとしていることだ。由美子とて、父、清太郎とて建設計画を止めることなどできやしないのだ。由美子は、大きな無力感に襲われた。
ガザガザと、人が草叢を歩く音が聞こえてきた。すると森の中から人がぞろぞろと出てきた。皆、日本人だ。
「健次、健次!」
由美子は、健次の顔を見るやいなや、走って抱きついた。健次も、ぐっと抱き締め返す。
「由美子、帰ってきたのか。ありがとう。君のおかげだよ。この森に入れたのは」
健次はとても嬉しそうな表情を浮かべ言った。
「それより、健次、何かいいものは見つかったの?」
「そう簡単にはいかないさ。とりあえず、いくつかサンプルは取れた。今日はもう遅い。明日、サンプルの検査をしてみる。それから、じっくり計画を立てて、明後日になればまたここに戻ってくるさ」
由美子は活き活きとした健次の顔を見たとたん、さっきまでのいらいらと高ぶっていた気持ちが急に落ち着ついた。
英明は、リムジンの中で考え事をしていた。気になっていることといえば由美子のことだ。あの女は、全く厄介だ。だが、自分の出世のためには社長の娘である由美子を利用しなければならない。
由美子と結婚するのだ。由美子と結婚すれば、明智一族の仲間入りができる。由美子は、社長清太郎の跡継ぎだ。しかし、あんな世間知らずの小娘に跡など継げるはずなどない。ということは夫であるこの自分が変わりに継ぐこととなる。
清太郎が、癌で余命いくばくもないのは知っている。野村院長が教えてくれた。あの男は、自分に負い目を感じているのだ。というのも、最近、野村が自分の所有する野村病院に新しい病棟を造る際の融資追加を明智物産傘下の銀行に依頼した時、英明の力が役に立ったのだ。英明が多額の融資を後押しする代わり、野村が清太郎の主治医となり清太郎の健康状態に関する情報を全て提供するという約束をさせたのだ。
由美子と結婚すれば、明智物産は清太郎の死後、自分のものになる。
英明は思った。由美子が、自分を心底嫌いなのは分かっている。だが、結婚はさせてみせる。いや、必ず結婚する。こっちには、ダム建設を中止できるという切札がある。あの女は愚か者だ。自然を守るという血迷った理想に打ち拉がれ、しまいには何でもすることになるだろう。あの鬱蒼とした不気味な森を守るために。
だが、そこまで追い詰めるには今のところ一つの障害が存在する。それをなくさなければならない。それは安藤健次のことだ。由美子の恋人だ。二人揃って愚かな理想主義者といえる。英明は健次とハワイで会った時のことを思い出した。その時、健次は仕事に失敗したからとやけ酒を飲み、酔いつぶれ、あろうことか自分につっかかてきた。何とも不愉快な体験だったことを覚えている。
由美子と同様、とても厄介な存在だ。あの男がいる限り、由美子は他の男と結婚するつもりにはならないだろう。そして、あの男は、会社が管理する土地となったあの森で、訳の分からないことをしている。あの森に癌やエイズを治す薬があるというのだ。英明にとっては、あの森は木や草が集まっただけのものに過ぎず、そんな優れものがあるとは信じがたかった。
だが、英明はアメリカのハーバード大学に留学していた時、医学部の学生からこんな話を聞いたことがある。化学薬品の合成などで新薬を作ってきたこれまでのやり方以外に、画期的な方法として熱帯雨林の植物から、直接そんな原料を捜し当てるというやり方が注目されているという。もっとも、古代から現代に至るまで医薬品の原料は植物から採取することが多かったのだが、その中で熱帯雨林は未知の原料の宝庫であり、癌やエイズを治せる薬の原料が存在する可能性があるといわれているのだ。
そんなこと起こるなどと本気で思ってはいない。しかし、万が一の可能性も無視できないのだ。英明は、用心深い性分だった。
障害となる要素は徹底して排除しなければならないと考えた英明は、携帯電話を取り上げた。番号を押した。しばらくして、
「ハロー、あんたかね。頼みたいことがある。厄介な奴が私の周りにいてね、・・・」
こんな問題を処理してくれる裏世界の組織がクアランコクに存在することを英明はよく知っていた。
次の日
昨晩、クアランコクに戻った時から、健次と隊員たちは採取したサンプルの分析をスワレシア国立クアランコク大学から借りた研究室で行った。
昨日採ってきた植物のサンプルの中には特別なものはなかった。健次達は、形が奇妙で、不思議な匂いがする魅惑の熱帯雨林ならではの珍しい植物ばかりを採ってきたのだが、医学的な効果を及ぼす成分などは含まれていなかった。
その他、昆虫も調べてみた。どれも奇妙な形や色をしたものばかりだった。日本では、絶対に見ることはできないものばかりだ。面白いのは、その多くは、カメレオンのように洩り全体の景色と形や色がマッチしており、その体自体が、葉っぱや木の枝とそっくりで、カモフラージュ効果といわれる天敵から見つかりにくくなるような外見をしているのだ。しかし、それらからも何も得られなかった。
まだまだ、始まったばかりだ。それに昨日採ってきたのは、あの森にある生物のほんの一部でしかない。熱帯雨林には何百万という種類の生物が存在し、その多くがまだ人間に発見されていないものばかりだ。昨日採ってきたのはその中の数百でしかない。
サンプルの分析が一段落すると、由美子も加わり、明日の探索の予定を決める打ち合わせが始まった。打ち合わせは長く続き、終わった時は夜遅くだった。取りあえず、一通りの計画はできあがった。明日からの探索は数日に渡り野宿して行う予定となった。限られた時間を活かし、なんとしてでもいい薬の原料を探し出さなければならない。あと三週間しかないのだ。
健次と由美子と隊員達はホテルに戻った。
健次は、フロントで鍵を受け取り、一人で自分の部屋へ行った。由美子と隊員達が、一階のレストランで一緒に食事をしようと誘ったのだが、食欲が湧かず断わった。
ドアを開け部屋の中に入る。健次は思った。まず、シャワーでも浴びよう。汗だくだくで、体は石になったみたいに疲れている。今日は特別体を動かしたわけではないのだが、たまっていた緊張が、今になってどっと押し寄せてきたような感覚だ。