森の命
「お父さんは分かってないわ。ダムができると、たくさん生活に困る人達ができるのよ。その人達は、どうだっていいって言うの!」
「何を言っとるんだ、由美子。ダム建設は会社のためだぞ。まずは、会社の利益を考えろ。人を思いやるのは勝手だが、会社には関係ないことだ」
清太郎は、由美子の言葉など理解の範疇にないようだ。由美子は悲しくなった。
「お父さん、わたし、お父さんのことが理解できない。わたしにはとっても優しいのに、私のためなら何だってしてくれて、こんな豪邸に住まわして、毎日おいしいもの食べさせてくれて、ハワイにまで留学させてくれた。そんなやさしいお父さんが、どうしてそんな酷いことを言うの?」
由美子は、涙を流した。清太郎は滅多に見れない娘の泣き顔をまじまじと見つめた。しばらくお互いの間に沈黙が続いた。
清太郎は小声で、
「全く、おまえの言っていることはわけが分からん・・」
と呟いた。
由美子は思った。父にこれ以上、何を言っても無理だ。清太郎は、今回に限らず今まで会社の利益のために数多く似たような環境破壊を押し進めてきたのだ。それを、自分のような小娘が文句を言ったところで考え方を変えるなんてことあり得ない。
沈黙の中、由美子はふと健次のことを思い出した。まだクアランコクにいるのだ。せっかくの医薬品原料探索が中止になってしい、そのことが心苦しかった。一ヵ月後には、あの森の伐採が始まる。あと一ヵ月しかない!
「お父さん、ダムのことはどうでもいいわ。だけど、お願いがあるの。ダムができるのは一ヵ月あとのことでしょ。その一か月の間だけでいいの。森に入って、医薬品の原料を探しに来ている人達を入れて」
「医薬品の原料を探すだと! いったい何者なんだ?」
由美子は、健次との関係を今話すのはまずいと思った。清太郎は、健次と会ったことはないから全然知らないのだ。由美子の恋人であることなどを今話せば、余計な混乱を生じさせてしまう。
「わたしがハワイで知り合った友達の薬理学者が率いる調査隊よ。熱帯雨林から癌やエイズを治せる薬の原料を探しているの」
清太郎は、その言葉を聞いてはっとした。癌やエイズを治せる薬を熱帯雨林から探す?
「何、馬鹿なことを言っとるんだ。そんなものがあるか!」
「探してみなきゃ分からないわ。わずかな可能性にかけて頑張ってるの。熱帯雨林は生物の種類がとても豊富なところよ。今まで発見されてない特殊なものが存在するかもしれないの。そして、それが癌やエイズを治す薬の原料になるかも・」
ゴホ、ゴホ、ゴホ、清太郎が喘息のような咳をした。
「お父さん、どうしたの、大丈夫?」
咳がまた続いた。ゴホ、ゴホ、苦しそうで身動きが取れないみたいだ。
「由美子、薬を、取って、くれ。右の、一番上の、引き出しに、入っている。それを、わしの口に入れて、くれ」
咳をしながら途切れ途切れに言う。
由美子は、さっと引き出しを開けた。粒状の薬を入れた瓶詰が入っていた。
瓶を取り出し蓋を開けた。粒を一つ取った。由美子は、急いでそれを咳を吐き出す清太郎口の中へ押し込んだ。水差しとコップがそばにあった。すぐに水をコップに入れ、それもすぐに口へ押し込んだ。清太郎が喉をグイグイ鳴らしながら飲み込む。
しばらくすると、咳はおさまった。
「お父さん、ひどい咳だわ。いったいどういうことなの? 何かひどい病気じゃ」
由美子は、恐ろしく心配になった。どう見ても普通の風邪で患う咳にはみえなかった。
「医者に行って検査をしてもらった。どうも働き過ぎで体の調子を最近崩しているらしい。まあ休みを取るようにしていれば、じきに治ると言っていた。心配するな!」
「心配するわ。あんなに咳き込んで」
由美子は、何だか自分が父親を責めすぎて咳を出させた気がしてしまった。
「由美子、その医薬品の原料を探すという奴だが、工事が始まる前までなら構わん。入れてやりなさい」
「お父さん! 本当?」
「ただし言っとくが、工事が始まったら、おしまいだ。分かったな」
清太郎は由美子をじろじろと見つめながら言った。由美子は心配そうな表情から喜びの表情へと変わっていった。
清太郎は、由美子に社長命令を書いた署名入りの文書を差し出した。それにはダム建設予定地の森に工事開始日前までは、安藤健次を含めた医薬品調査隊員のみ入れるというものだった。
由美子は、取りあえずクアランコクの健次に電話をして文書はファックスで送った。もちろん、現地の当局に話しは伝わっている。健次は大喜びだった。そして、言った。
「由美子、安心しろ。もしかしたら、すごい原料が見つかって、明智物産が森を破壊するのをやめざる得なくなるかもしれない。癌でも治せる薬を作れる原料があるなら、ダムなんかよりも価値が出てくるもんな」
すっかり、薬の原料を見付けた気分だった。
由美子は、その夜、父と食事を共にし、いろいろな話をした。話の内容は、主に子供の頃から高校時代まで父と遊んだことなど家族としての思い出話や自分の五年間のハワイ生活の話しだった。これ以上、森の話はしないことにした。今の由美子には、それで満足だった。
次の日の朝早く、由美子は、慌ただしくも、クアランコクへ向けて出発した。空港に行く途中、真理子のアパートに寄ってみたが、真理子は留守だった。真理子には、本当にすまないことをしてしまったと思った。自分には責任があるのだ。取りあえず、父には、大日本新聞社に掛け合い真理子に元のように記者として復帰できるように頼んだ。大広告主の父が指示するのなら、問題なくその頼みも通るはずだ。
出発した成田が冬の曇り空だったためか、クアランコクの日差しは恐ろしく強く感じた。ファーストクラス出口のタラップから降りると目が痛くてたまらない。由美子は、帽子をかぶり陽射しを避けた。
税関を通り到着ロビーを抜けタクシーに乗った。行く先は、ホテルではない。さっそく、もうすでに健次が入っている森の方に向かうのだ。時計を見ると午後一時だった。ここから二時間で森のある場所に着く。
二時間後、タクシーは、クアランコク郊外の農村に着いた。目的の森は、目の前に立ちはだかり悠々しい姿を見せていた。
思った通り、ジープが二台停まっている。すでに健次達が、森の中に入って探索を始めた模様だ。
安藤健次率いる一行は、その日の朝六時頃に森に着き探索を始めていた。健次は、昨夜眠れなかった。由美子からの電話とファックスは思わぬ出来事だった。さっそく、隊員全員にことを話し、朝の四時に起きクアランコクを出発、できるだけ多くの時間を使って、森の中で医薬品原料の探索をすることにした。
森の前につき、眠気まなこの警備員に明智物産社長署名入りのファックスを見せたときは、これまでの人生で一度も経験したことのない快感を味わった。
絶対に捜し出してやる。と健次は心に決めた。
もし見つけることができたなら、仮にそれが癌やエイズを治療できる薬の原料であったとしたら、ダム建設計画など吹っ飛んでしまうだろう。医薬品の生み出す利益とは莫大なものだ。