森の命
「ようし、分かった。親友の由美子の頼みだもの、断るわけにはいかないわ」
「真理子!」
「安心して、これから飛行機に乗って日本に帰るわ。今夜着いて、すぐに記事を書く。明日の朝刊にはこのこと載せられるわ。わたしも、正義のジャーナリストだもの。新聞は社会の公器って言うわ。高校時代の用務員のおじさんを救った事件のこと思い出すでしょう。ジャーナリズムが人を救うのよ。こんな使命が果たせるなんてまたとない機会よ」
由美子の心に強い感激の鼓動が響いた。
「でも、本当にいいのね。あなたの会社の名前を出して」
「もちろんよ。わたしが責任を取るんだから」
由美子は、手で涙を拭きながら言った。
クアランコクタワービル七十五階のオフィスに英明はいた。
今朝は社長令嬢由美子のせいで大往生した。エレベーターも大統領警護のため一基しか動いていなかったので、あとを追いかけ九十九階に行ったときには遅すぎた。大統領と由美子の対話はすでに始まっていた。大統領が誰かと会談中は、いっさい邪魔を挟めない。これでは仕方ないと七十五階のオフィスに戻った。
どうやら由美子は、とても失礼なことを大統領に言ってしまったらしい。大統領官邸に電話をすると、秘書から、今後、明智物産の者はファックスもしくは郵便でのみ大統領と連絡を交わすようにと言われてしまった。
社長の言っていた通り、じゃじゃ馬娘もいいところだ。会社の運命を危うくすることばかりする。その度に、こっちは振り回され尻拭いに負われるのだ。
英明は、電話の受話器を取った。
「オペレーター、東京の大日本新聞社につないでくれないか」
しばらくして、
「もしもし、大日本新聞社かね。社長の広瀬さんと話しをしたいのだが。私は明智物産の石田という者だ。緊急事態だ。急いでつないでくれ」
そして、三十秒ほどして、
「もしもし、社長。お久しぶりです。さっそくですが、そちらの国際部の真理子という記者なのですが・・・」
次の日の朝、由美子は目を覚ました。
昨日は真理子を空港へ送り出し、夕食を取って、ホテルの部屋に戻るとすぐに眠りに入ったのだ。空港で真理子に明智物産のダム建設計画の書類を持たせた。記事を書くのに役立てて欲しかったからだ。
由美子は、ベッドから起き上がると、ドアと床の間に挟まれている新聞紙を目にした。宿泊客に毎朝配られるものだ。日本人客には日本の新聞が配られる。
大日本新聞社は、海外に滞在する日本人のために日本で発刊されるのと同時間に新聞を海外の主要都市で発刊、配達するシステムを持っているのだ。
スワレシアと日本との時差は、わずか一時間だから、この部屋に送られた朝刊は、日本の朝刊を読むのとほとんど変わらない。
由美子は、決して、朝刊を読むことが楽しみではなかった。父親の会社の信用に差し障ることが書いてあるはずだからだ。たとえそれが正義のためであったとしても、自分にとっては気に病むことだった。由美子は、父親が好きだ。大事な唯一の家族なのだ。その家族を傷つけることを自分はしているのだ。
由美子は、愛する父の顔を思い浮べながら、新聞紙を拾い上げ紙面を広げた。
最初の一面記事は、政治の動きについてだ。新しい内閣改造の動きについて書かれていた。
真理子は言っていた。書く記事は、トップニュースというわけじゃないから、一面に載るということはない。国際部の定期的な海外の一出来事を記す記事として四面くらいに載るだろうと。幸か不幸か大事件としての扱いを受けることにはならないのである。
由美子は、二面、三面と開く。そして、四面目に来た。由美子は目を凝らして、そこに書かれている記事を読んだ。
《発展するスワレシア、世界一高いビルオープン 次は東南アジア最大のダム》
何だか変な見出しだなと思った。四面の上半分をこの見出しの記事が埋めている。下半分は企業広告だ。
由美子は、記事の中身を読み始めた。
《昨日スワレシア首都クアランコクで高さ世界一の超高層ビル、クアランコクタワービルのオープニングセレモニーが開かれた。高さは地上五百二十メートル九十九階建て。そのうえ、同じ高さのビルが二本並ぶツインビルだ。式典には、スワレシア国大統領マラティール氏も出席し、このビルに象徴されるスワレシア経済の勢いをアピールした。・・》
記事の横には、クアランコクタワービルの真直ぐそびえる姿を背景にマラティール大統領が誇らし気に微笑んでいる姿を撮った写真が載せられていた。
由美子は読み続けた。続いて書いてあることは、ビルののデザインがボールペンを立てた形を似せたものだったため頂上が円錐形になっているとか、総工費に200億円もの金額が費やされたとかいう宣伝文句のような事柄だった。
まあ、いいだろう。真理子もそもそもあのビルの取材に来たのだったから。ダムのことはどう書かれているのだろうと思い由美子は、さらに続けて読んだ。
《スワレシアの次なる世界一は、クアランコク郊外に建てる東南アジア一の貯水量と電力供給量を誇る水力発電ダムである。建設は来月にも着工され、スワレシアの工業と国民生活の近代化に多大な貢献をするものと思われる》
発電所建設計画の部分はそれだけであった。
この紙面に載っている記事は、主にクアランコクタワービルのことだ。ダム建設のことは、ほんの数行。記事には、最初から最後まで批判的な言葉はなく真理子に話した問題となっていることは何一つ書いていない。むしろ、称賛記事ともいえる。
由美子は、次の紙面も見てみた。次はスポーツ記事だ。プロ野球とサッカーのJリーグ。次は、文芸と家庭欄だ。
由美子は、四面に戻った。また、同じ記事を読み直した。
真理子は一体何をしているんだ? 由美子は無意味に、さらにもう一度記事を読み直す。何度読もうと、それで書かれた文章が変わるはずはないのだが、やるせない気持ちがそうさせた。ふと記事を読む目がずれ込み、紙面の下半分にあった大きな広告欄を目にしてしまった。
微笑む美しいモデルと超高層ビルの立ち並ぶ街並の夜景が背景となっている上に、大きな文字が宣伝コピーとして並んでいる。
《皆さんの生活を守り続けて三十年》
そして、会社名も大きくプリントされていた。《明智物産》そして、別のコピーも大きく、くっきりと印刷されている。
《明智物産は、世界一の高さを誇る超高層ビル、クアランコクタワービル建設に成功し、このたび、建設予定の東南アジア一の規模を誇るダム建設にも携わっています》
なんということだ。これじゃ、この紙面の記事は、同じ紙面の広告と合わせて明智物産の宣伝に使われているじゃないか。
一体、全体何が起こったと言うのか! 由美子は頭が混乱してきた。
由美子は、真理子がくれた名刺をバッグから取り出し、電話の受話器を急いで取った。名刺に書いてある真理子の職場の電話番号を見ながらプッシュボタンを押した。
「もしもし、こちら大日本新聞国際部ですが」
若い男の声が聞こえた。
「もしもし、そちらに大塚真理子という記者の方いらっしゃいませんか?」
由美子は言った。
「大塚ですか? 今日は来ておりませんが」
真理子がいない?
「そうですか。どうもすみませんでした」