森の命
「ねえ、大統領と通産大臣は何しに上がったの?」
「これから官邸に戻って閣僚会議があるそうですから、そのことについて打ち合わせをしに行ったのでしょう。邪魔することのないように」
英明は由実子の企んでいることを見抜いているようだ。
「あら、私が、邪魔でもするとお思い?」
由美子は、かっと英明をにらんだ。昨晩からにらみつけられ、慣れてしまっているのか英明は平然としている。
「別にそういうわけではありませんが、あ、着きましたよ。七十五階です。ここに私たちのオフィスがあります」
英明がエレベーターから廊下に出る。その瞬間、由美子はさっとボタンを押し、エレベーターのドアを閉めた。
エレベーターの中で一人になった由美子は、最上階のボタンを押した。
エレベーターは、上昇していく。そして、約十秒後、エレベーターが停まった。ドアが、さっと開いた。
由美子が廊下に出ると。警備員が数人近付いてきた。
「君は何者だ?」
警備員の一人の男が強ばった口調できく。
「明智物産社長の代理である娘の明智由美子です。大統領に大事な話があって参りました。会わせていただけますでしょうか?」
すると、警備員の男は、なるほどという顔をして由実子を見つめた。そして、男は、とにかく大統領と通産大臣の話し合いが終わるまで十分ほど待つようにと言った。
十分が経った。すると警備員の男は、その場を離れた。どうやら、大統領のいる部屋へ向かったようだ。
しばらくして警備員が戻り、由美子に近付き言った。
『大統領が入っていいとおっしゃています。案内しますから、ついてきてください』
由美子は、警備員についていき、大きな応接室に入っていった。
そこには、通産大臣のライ氏と、マラティール氏がソファに座っていた。
マラティール氏は、近くで見るとさらに貫禄の伝わってくる人物だ。通産大臣は、それとは対照的で、同じ年齢のはずだが大統領よりずっと老けて見える。いまいち、大臣としての貫禄も感じられない。二人は、由美子を見つめながらソファーから立ち上がった。
「初めまして、由美子さん。今回お父さまはお越しになれないと聞いていましたので残念に思っていたのですよ。ですが代理のあなたにお会いできて嬉しい。あなたのお父様にはずいぶんお世話になりましたからね。娘さんのあなたと是非ともお会いしたいと思っていたのですよ」
とマラティール氏は、たいへん流暢な日本語で由美子に話しかけた。
由美子は、驚いてしまった。まるで、日本人に話しかけられたような気分だ。
「私の日本語に驚いていらっしゃるようですね。私は日本に住んでいたことがあるんですよ。その時からあなたのお父様とのつき合いが始まりましたからね」
由美子は、自分の驚いた表情が失礼に当たらなかったか心配になった。
「初めまして。大統領、すばらしい日本語、感激しますわ。父の会社が、お世話になってますので、私こそ、お近付きになれて光栄でございます」
由実子は、大きな笑みを浮かべて言った。心の中では恐ろしく緊張していた。今まで大統領のような大人物と面と向かって会ったことがないのだ。
マラティール氏は、握手をしようと手を差し出した。由美子も、さっと手を差し出し握手を交わした。すぐにライ氏が、続いて手を差し伸べ握手を交わした。ライ氏は英語で「お会いできて光栄です」とフォーマルな挨拶を一言口にした。由美子は、「私も光栄です」と言って丁寧に返した。
「どうぞ、お座りください」
マラティール氏は言った。
由美子とマラティール氏は、向かい合いソファーに座った。ライ氏はマラティール氏の横に座った。
「大統領、今回厚かましくも、約束もとらずここに参りましたのは、たいへん重要なことがあってのことなんです」
「なるほど、それはいったいどういうことなのでしょう? 私でお役に立つことでございますなら、何なりとお話しください」
マラティール氏は、真剣な眼差しで由美子を見つめる。
「ここから車で二時間ほど離れたところで、ダムの建設が予定されていることはご存じでしょうか?」
「もちろんですとも、何といっても、そちらの明智物産の方で担当なさっていただくことになりましたプロジェクトですからね。完成すれば、貯水規模、発電量は東南アジアで最大のものとなりましょう」
由美子は、ここぞと神経を集中させた。相手は一国の大統領、慎重に対応しなくてはならない。
「大統領、昨夜、建設予定地周辺の村民の方達が集まって、市民会館で反対集会をしていたことはご存じでしょうか?」
「ほお、それは初耳ですな」
「そんなことはないと思います。昨夜、そちらの通産大臣の命令により警官隊が市民会館の講堂に押し寄せ、村民の方たちを逮捕して、集会をやめさせましたから」
「何ですと?」
マラティール氏は、驚きの表情を見せた。
「村民の方たちは今、留置場にいます。本当なら、今日のオープニングセレモニーの時にここでデモをするはずだったんです」
「ライ君、それは本当なのかね?」
マラティール大統領は、英語でライ氏に話しかけた。
「大統領、彼らの集会は著しく公益を害するもので、ほっておけば、今日のオープニングセレモニーを妨害され、ダムの建設もまた・・』
「ライ君、すぐに村民の方たちを釈放しなさい。我が国はこれでも、民主主義体制をとっている国家だ。市民の運動を力で押さえたとなると、国家の恥だ。釈放しなさい。私は、そこまでしろとは君に命じた覚えはない」
ライ通産大臣は、立ち上がった。
「かしこまりました、大統領。直ちに釈放させます」
何だか、ライ氏は不満気な感じだ。苦々しい表情で応接室を出ていく。
応接室は、由美子とマラティール大統領の二人だけになった。
「わざわざおしえていただいてありがとうございます。時に彼も行動が強引すぎてしまいミスを犯してしまうことがあります。私の監督不届きといえばそれまでですが、これも国を思う気持ちがあればのことでして、ですが、まことにとんでもないことをしてしまったと思いますよ」
マラティール氏は、淡々と言った。
「大統領、そのお国を思う気持ちがあるのでしたら、ダム建設自体を考え直してはいただけませんでしょうか!」
由美子は、息を吐き出しながら言った。
「考え直すというと、どういうことですかな? 由美子さん?」
そう言いながら、マラティール氏の表情が、不気味に変わっていった。
「は、はい。ご存じの通り、大統領、今回の発電所建設計画は、私共の会社明智物産が請け負うこととなりましたが、実際のところ、建設の発注主でございますスワレシア政府の大統領、貴方に考え直していただきたいのです」
由美子は、目の前のマラティール氏の凍った目つきと驚きの表情を見て、これ以上言葉が出なかった。
「お父さまには、そのことをお話しなさいましたか?」
マラティール氏は、ソファーから立ち上がった。ゆっくり歩いて窓の方へ近付いていく。窓の外の景色を眺め始めた。ここは、世界一高いビルの最上階、眼下に見下ろすのはスワレシアの首都クワランコク市の全景だ。
「まず、きっとお父さまとお話しになったはずです!」
とマラティール氏は、とげとげしく言った。