昇降機怪談
「それでは、今度は私がお話しさせてもらおうかな。先月、学生時代からの友人のパーティーにお呼ばれした時の体験なんだけど」
「何だい? ……ああいや、パーティーと言っても本格的なものではなくて、そうだね……軽めの立食パーティーとでも思ってほしいな。私はその招待を受けて、友人の家にお邪魔したんだ」
鮫島(さめじま)みゆきの友人は、高級マンションの高層階に引っ越していた。
その建物自体が出来てまだ間もないということもあって、部屋はどこもかしこも新品そのものだった。キッチンやバスルームは最新モデル、何畳あるのか分からないリビングは外に面している所はほぼガラス張りという、かなり洒落た造りになっていた。見せてもらったみゆきは、最初から最後まで感心のし通しだった。
「特にそのリビングからの眺めは素晴らしかったよ。夜の底で煌めくビルのネオン群を見渡す限りに臨むのは――何のひねりもない言葉で恥ずかしいけど、本当に綺麗で。生憎の雨が降る日だったけど、成程、まるで宝石を散りばめたようとはまさにこのことなのかと感動をしたね」
さて、家の中を一通り案内してもらってから始まったパーティーは、何事もなく進んだ。
軽めの料理をつまみながらアルコールを嗜み、他愛もない雑談で盛り上がる――とても楽しい一時だった。宴もたけなわ、そろそろお開きしそうな頃……みゆきは一足先にお暇することにした。
友人には泊まっていくよう勧められたが、遊びくたびれてもいて、何より……我が家がほんの少し恋しくなってしまっていたのだ。玄関先で別れたみゆきは一人、長く伸びた廊下を歩いて行った。
エレベーターホールに差し掛かった時、みゆきはそこで今まさに閉じようとしているエレベーターを見つけて、思わず走り出していた。
普段ならそんな駆け込み乗車じみたことはしないのだが、何せそこはマンションの高層階。もしそのエレベーターを逃してしまった場合、次に乗れるのはいつになるのか皆目見当もつかなかったからだ。しかしその甲斐あって、みゆきは無事エレベーターに乗り込むことができた。
そのエレベーターは、どこにでもあるごく普通のエレベーターだった。一往復での輸送人数を考えてなのか、通常のものより広かったように思う。その少し大きめのエレベーターの中に先客はいなかった。
みゆきは必死に駆け込んできた場面を、誰にも見られなかったことにほっと胸をなでおろして、ずらりと並んだたくさんのボタンの一番下を押し、近くで足音がしないことを確かめてから『閉』のボタンを押した。
エレベーターのドアはスムーズに閉まると、一瞬上に引き伸ばされるような感覚がしてゆるやかに下降が始まった。
それから何分もたっていなかったと思う。
操作板の前に立って、ぼうっと階数表示を見上げていたみゆきの背後から、雨の降る音が聞こえはじめたのは。
その時のみゆきは、既に知人の家で外が雨であることを承知していたから、雨足が強くなってきたんだな、程度にしか思わなかった。でも――本当に間が悪いことに、みゆきはそれまで失念していた話を不意に思い出してしまい、それはおかしいと思い直さなければならなくなった。
失念していた話というのは、そのマンションには都会の騒音対策とやらで、そこかしこに防音処置が施されているということ。つまり、外の音がほとんど入ってこないはずなのだ。事実、その話をしてくれた知人の家でも、みゆきは一度たりとも雨音を耳にしていなかった。
外に面した部屋ですらその有り様なのだから、マンション内部に作られたエレベーターでは尚のこと。ますます音の入り込む余地なんてないわけだ。
ぎょっとして振り返ると、エレベーター内に変わったところはないようだった。
奥の床から真っ赤な血や真っ黒な水がしみでてきて――なんて、ホラー映画の定番のようなこともなく、何の変哲もない壁と床があるだけ。みゆきはそれだけ確認すると、再びドアの方に向き直った。
気のせいか、あるいは相当などしゃ降りなのだろうと己に言い聞かせる。それ以上他のことを考えないように、階数表示だけを一心不乱に見つめた。
「……ええ、その時から既に何となく引っかかるものはあったのだけれどね」
はやる気持ちとは裏腹に数字は一つずつ、もどかしいほどに順番に減っていった。そしてついに半分まできた。これで残りはまだ半分、いいえ、後半分。
みゆきは、無意識のうちにつめていた息をゆっくり吐いた。次の異変が起きたのは、その時だ。
エレベーター内の電灯が――まるで点けたばかりの蛍光灯のように――チカチカと瞬いたの。
「これだけで異変とするのは早計じゃないかって? しかし雨音のこともあって、短時間でこうも立て続けに起こられると、ねぇ?」
流石に「気のせい」やら「たまたま」で片づけるには少し……はっきり言うと、みゆきにはそれらの現象が既に偶然の域を越えているように思えて仕方がなかった。
そして瞬く明かりに更なる不安を募らせ、さてこれはどこか適当な階で降りるべきかと思案した瞬間。
ふぅっ――と。突然、目の前が真っ暗になった。そう、たった今、瞬きはじめたばかりの電灯が、もう切れてしまった。
それがみゆきにはもっと何か――酷く、恐ろしい何かの前触れのように思えてならなかった。
そうなると気になるのは、一番始めの雨音。真っ暗だから何が見えるわけもないのに、みゆきはとっさに背後を振り返った。
するとまるで狙いすまされたかのように電灯が閃き、すぐに沈黙した。
……その刹那の明かりを得られたみゆきは、全身に鳥肌を立てて凍りついた。
電灯のフラッシュで、籠の中が明るく照らし出された瞬間。その一秒にも満たない僅かな時間の中で、みゆきは見てしまった。
エレベーターの隅に立つ、ひしゃげたヘルメットをかぶった――明らかに頭部の形がおかしい、黒い何かでまだら模様に見える作業着姿の男を……。
みゆきは悟った――『同乗』してしまったと。
濃厚な冷たい暗闇の中で、異形のモノと二人きりという事実が、急速にみゆきの心を圧迫した。
「ああいうのが、紛れもない『恐怖』という感情なのだろうね……」
すぐに耐え切れなくなったみゆきは声にならない悲鳴をあげ、少しでも躰を動かせば届いてしまうような距離から逃れようとした。
しかしそこは密室だ。みゆきはすぐに壁にぶつかり、逃げ場がどこにも無いことに気がついて愕然とした。
なぜ、どうして――男がすぐ後ろにいるのに!
みゆきは背後の男がまだそこにいるのか、或いは徐徐に近づいてきているのか……何も分からない恐怖と暗闇の中、懸命に壁に手を這わせた。
そして運良く触れたボタンの感触に、今居るのがエレベーター内であったことを思い出せた。
狂ったようにそれを叩くと、電灯の明かりが落ちたのにも関わらず、何事も無かったように下降を続けていたエレベーターは、幸いなことにすぐ近場の階で停まってくれた。
みゆきはドアが開ききるのさえもどかしくて、半分も開かないうちに躰をその隙間に押し込んで何とか外に飛び出す。とにかくそこから離れたい一心で駆けぬけた。
そしてエレベーターホールから立ち去る直前、ふと気になって振り返った。
「何だい? ……ああいや、パーティーと言っても本格的なものではなくて、そうだね……軽めの立食パーティーとでも思ってほしいな。私はその招待を受けて、友人の家にお邪魔したんだ」
鮫島(さめじま)みゆきの友人は、高級マンションの高層階に引っ越していた。
その建物自体が出来てまだ間もないということもあって、部屋はどこもかしこも新品そのものだった。キッチンやバスルームは最新モデル、何畳あるのか分からないリビングは外に面している所はほぼガラス張りという、かなり洒落た造りになっていた。見せてもらったみゆきは、最初から最後まで感心のし通しだった。
「特にそのリビングからの眺めは素晴らしかったよ。夜の底で煌めくビルのネオン群を見渡す限りに臨むのは――何のひねりもない言葉で恥ずかしいけど、本当に綺麗で。生憎の雨が降る日だったけど、成程、まるで宝石を散りばめたようとはまさにこのことなのかと感動をしたね」
さて、家の中を一通り案内してもらってから始まったパーティーは、何事もなく進んだ。
軽めの料理をつまみながらアルコールを嗜み、他愛もない雑談で盛り上がる――とても楽しい一時だった。宴もたけなわ、そろそろお開きしそうな頃……みゆきは一足先にお暇することにした。
友人には泊まっていくよう勧められたが、遊びくたびれてもいて、何より……我が家がほんの少し恋しくなってしまっていたのだ。玄関先で別れたみゆきは一人、長く伸びた廊下を歩いて行った。
エレベーターホールに差し掛かった時、みゆきはそこで今まさに閉じようとしているエレベーターを見つけて、思わず走り出していた。
普段ならそんな駆け込み乗車じみたことはしないのだが、何せそこはマンションの高層階。もしそのエレベーターを逃してしまった場合、次に乗れるのはいつになるのか皆目見当もつかなかったからだ。しかしその甲斐あって、みゆきは無事エレベーターに乗り込むことができた。
そのエレベーターは、どこにでもあるごく普通のエレベーターだった。一往復での輸送人数を考えてなのか、通常のものより広かったように思う。その少し大きめのエレベーターの中に先客はいなかった。
みゆきは必死に駆け込んできた場面を、誰にも見られなかったことにほっと胸をなでおろして、ずらりと並んだたくさんのボタンの一番下を押し、近くで足音がしないことを確かめてから『閉』のボタンを押した。
エレベーターのドアはスムーズに閉まると、一瞬上に引き伸ばされるような感覚がしてゆるやかに下降が始まった。
それから何分もたっていなかったと思う。
操作板の前に立って、ぼうっと階数表示を見上げていたみゆきの背後から、雨の降る音が聞こえはじめたのは。
その時のみゆきは、既に知人の家で外が雨であることを承知していたから、雨足が強くなってきたんだな、程度にしか思わなかった。でも――本当に間が悪いことに、みゆきはそれまで失念していた話を不意に思い出してしまい、それはおかしいと思い直さなければならなくなった。
失念していた話というのは、そのマンションには都会の騒音対策とやらで、そこかしこに防音処置が施されているということ。つまり、外の音がほとんど入ってこないはずなのだ。事実、その話をしてくれた知人の家でも、みゆきは一度たりとも雨音を耳にしていなかった。
外に面した部屋ですらその有り様なのだから、マンション内部に作られたエレベーターでは尚のこと。ますます音の入り込む余地なんてないわけだ。
ぎょっとして振り返ると、エレベーター内に変わったところはないようだった。
奥の床から真っ赤な血や真っ黒な水がしみでてきて――なんて、ホラー映画の定番のようなこともなく、何の変哲もない壁と床があるだけ。みゆきはそれだけ確認すると、再びドアの方に向き直った。
気のせいか、あるいは相当などしゃ降りなのだろうと己に言い聞かせる。それ以上他のことを考えないように、階数表示だけを一心不乱に見つめた。
「……ええ、その時から既に何となく引っかかるものはあったのだけれどね」
はやる気持ちとは裏腹に数字は一つずつ、もどかしいほどに順番に減っていった。そしてついに半分まできた。これで残りはまだ半分、いいえ、後半分。
みゆきは、無意識のうちにつめていた息をゆっくり吐いた。次の異変が起きたのは、その時だ。
エレベーター内の電灯が――まるで点けたばかりの蛍光灯のように――チカチカと瞬いたの。
「これだけで異変とするのは早計じゃないかって? しかし雨音のこともあって、短時間でこうも立て続けに起こられると、ねぇ?」
流石に「気のせい」やら「たまたま」で片づけるには少し……はっきり言うと、みゆきにはそれらの現象が既に偶然の域を越えているように思えて仕方がなかった。
そして瞬く明かりに更なる不安を募らせ、さてこれはどこか適当な階で降りるべきかと思案した瞬間。
ふぅっ――と。突然、目の前が真っ暗になった。そう、たった今、瞬きはじめたばかりの電灯が、もう切れてしまった。
それがみゆきにはもっと何か――酷く、恐ろしい何かの前触れのように思えてならなかった。
そうなると気になるのは、一番始めの雨音。真っ暗だから何が見えるわけもないのに、みゆきはとっさに背後を振り返った。
するとまるで狙いすまされたかのように電灯が閃き、すぐに沈黙した。
……その刹那の明かりを得られたみゆきは、全身に鳥肌を立てて凍りついた。
電灯のフラッシュで、籠の中が明るく照らし出された瞬間。その一秒にも満たない僅かな時間の中で、みゆきは見てしまった。
エレベーターの隅に立つ、ひしゃげたヘルメットをかぶった――明らかに頭部の形がおかしい、黒い何かでまだら模様に見える作業着姿の男を……。
みゆきは悟った――『同乗』してしまったと。
濃厚な冷たい暗闇の中で、異形のモノと二人きりという事実が、急速にみゆきの心を圧迫した。
「ああいうのが、紛れもない『恐怖』という感情なのだろうね……」
すぐに耐え切れなくなったみゆきは声にならない悲鳴をあげ、少しでも躰を動かせば届いてしまうような距離から逃れようとした。
しかしそこは密室だ。みゆきはすぐに壁にぶつかり、逃げ場がどこにも無いことに気がついて愕然とした。
なぜ、どうして――男がすぐ後ろにいるのに!
みゆきは背後の男がまだそこにいるのか、或いは徐徐に近づいてきているのか……何も分からない恐怖と暗闇の中、懸命に壁に手を這わせた。
そして運良く触れたボタンの感触に、今居るのがエレベーター内であったことを思い出せた。
狂ったようにそれを叩くと、電灯の明かりが落ちたのにも関わらず、何事も無かったように下降を続けていたエレベーターは、幸いなことにすぐ近場の階で停まってくれた。
みゆきはドアが開ききるのさえもどかしくて、半分も開かないうちに躰をその隙間に押し込んで何とか外に飛び出す。とにかくそこから離れたい一心で駆けぬけた。
そしてエレベーターホールから立ち去る直前、ふと気になって振り返った。