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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(後編)

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「また、そのように自棄のような物言いをなさる。よろしいですかな、殿。たとえ春瑶院さまがどのように仰せあろうとも、我々は殿を廃し奉るつもりは毛頭ござりませぬ。あくまでも、ここにおいで頂くのは、こたびの一件が静まり、ほとぼりが冷めるまでのこと」
 玄馬は、嘉宣の幼少時の守役、つまり教育係でもあった。嘉宣は玄馬を実の父以上に慕い、剣の手ほどきを庭でよくつけて貰ったものだ。
 嘉宣はそれには応えず、いつもの科白を口にした。
「橘乃はどうしておろうな。この寒さでは、身重の身にはこたえよう。俺のことは構わないで良いから、橘乃のことを気に掛けてやってくれ」
「―」
 玄馬から、いらえはなかった。
 ただ眼を伏せているだけだ。
 その時、嘉宣の中で違和感が生じた。
 いつもなら、〝橘乃はどうしておるか〟と問えば、必ず苦笑しながら〝お変わりございませぬ〟と応えるのに、今日は何故、何も言わない―?
「いがかした、もしや橘乃の身に何かあったのか!?」
 これまでの静謐さを纏った男とは別人のように、嘉宣は玄馬に掴みかからんばかりの勢いで食いかかった。
「い、いえ。お方さまには常と何らお変わりなくお過ごしにございます」
 眼の前に立ち塞がれた玄馬は、嘉宣の眼を見ないようにしながら、どこか投げやりな口調で言った。
「真であろうな」
 嘉宣が重ねて問うと、玄馬は今度は嘉宣の瞳を真っ向から見つめ返した。
「はっ、委細、相違ござりませぬ」
 その瞳の奥に潜む真実を見極めようとしても、老獪な家老の瞳には何の感情も表れてはいない。
「そうか、ならば良い」
 嘉宣はもうすべてのものに興味を失ったように、玄馬に背を向ける。
 そのときだった。
―殿、嘉宣さま。
 どこかでかすかに自分を呼ぶ声が聞こえて、嘉宣は眼を見開いた。
「橘乃?」
 思わず愛する女の名を呼んだ嘉宣を、玄馬が不審げに見つめる。
「殿、どうかかなされましたか?」
「いや、橘乃の声が聞こえたような気がしたのだ」
 その応えに、玄馬がハッとしたように身じろいだ。どうも、今日の玄馬は不自然だ。態度や物言いがぎごちない。幼少の頃から身近にいた玄馬は、嘉宣にとっては近しい存在だ。
 ちょっとした変化まで、よく察知できるのだ。
「それでは、殿。それがしはこれにて失礼仕りまする」
 玄馬が逃げるように部屋を出てゆく。
 こんなことも珍しいことだ。大抵であれば、一刻余りはここにいて、他愛ない想い出話―嘉宣がまだ菊丸と称していた幼少時の話などに耽ってゆくのだが。
 しかし、嘉宣は玄馬の不自然な態度にもさして心を払わなかった。
 あれは、嘘をつくような男ではない。玄馬が橘乃は生きているというのなら、大丈夫、橘乃は無事でいるはずだ。
 嘉宣は、再び物想いに浸りながら、次第に白く染まってゆく庭を眺める。
 彼が視線を動かしたのとほぼ同時に、椿が一つ、ぽとりと音を立てて落ちた。
 彼の眼に、鮮やかな真紅が盛りの紅葉の色と重なる。
 思えば、橘乃と二人で紅葉を眺めたあの頃が、二人にとっては最も幸せな時期だったのだろう。
―嘉―宣さま。
 また、橘乃の声が聞こえてきて、嘉宣は思わず周囲を見回した。
「橘乃、どうしている?」
 問いかけてみても、応えはない。
 次第に烈しさを増してゆく雪がすべての物音を吸い取っているのか、膚を刺すような静寂が周囲に満ちていた。
 ぽとり、また一つ、椿が雪の上に落ちた。


     【終章】

 嘉宣は、長い回想から己れを解き放った。
 長い、長い夢を見ていたようだ。
 でも、幸せな夢だった。
 嘉宣が橘乃の死を知ったのは、橘乃がこの世を去ってから既にひと月以上が経過してからのことだ。
 初めてその苛酷な事実を知らされた時、嘉宣は玄馬の胸倉を掴み上げ、烈しく揺さぶった。
―何故、何故だ。何ゆえ、嘘をついた?
 やはり、橘乃は、既にこの世の者ではなかったのだ。
 俺は、たった一人であいつを、橘乃を逝かせたのか?
 その死を知っていたなら、せめて経の一つでも読んでやったものを。野辺の送りにはゆけずとも、線香の一つくらい立ててやれたものを。
―葬儀はどうしたのだ? 
 科人であれば、まともな弔い一つ出してやっていないのではないか。
 そう思って訊ねたのだが、玄馬によれば、橘乃の亡骸は引き取りにきた両親に引き渡され、実家でしめやかな弔いが行われたという。
―馬鹿な。橘乃は正式な側室、仮にも藩主である俺の子を宿した女だぞ? それを実家に戻し、ひっそりと荼毘に付しただと?
 嘉宣の怒りは頂点に達した。
 通常、藩主の妻妾は歴代藩主の永眠(ねむ)るこの英泉寺の墓地に葬られるのが習いである。殊に、橘乃は嘉宣の第一子となるべき子をその身に宿していたのだ。
―さりながら、殿。橘乃どのは大罪人にござりますぞ。
 そう言った玄馬の首を玄馬は締め上げた。
―橘乃は罪人などではないッ。あれは、母上を殺せと命じたのは、この俺だ! あの女には何の拘わり合いもなかったのだぞ。
―殿。滅多なことを仰せになられますな。橘乃どのは、今際のきわまでこたびの一件は殿には何の拘わり合いもなきこととおっしゃり、従容と死に臨まれたのですぞ。橘乃どののお心を思えば、それ以上仰せになってはなりませぬ。
 苦しげに喘ぐ玄馬の首から手を放し、嘉宣は老いた家老の身体を押しやった。
―もう良いッ。二度と俺の前に姿を見せるな。貴様らが寄ってたかって橘乃を殺したのだ。貴様らの顔など金輪際見たくもない。
 嘉宣は叫ぶなり、裸足のまま庭に駆け下りた。
―橘乃ォ―。
 最愛の女の名を呼びながら、嘉宣はその場に座り込み、拳を地面に幾度も打ちつけた。
 しまいには両の手が血と泥にまみれるのも頓着せず、ただひたすら泣きながら地面を叩き続けた。
 俺は生涯、あの女を許さないだろう。
 生まれ落ちたその瞬間から、我が子を棄てた母は、今また我が子を殺そうとしたのだ。
 あの女が橘乃を、俺の橘乃を殺した!!
 嘉宣は嵐のように荒れ狂う感情を自分でも持て余しかね、唇を噛みしめた。これ以上噛めぬというほど強く噛みしめていなければ、このまま獣の咆哮のような雄叫びを上げ、下屋敷まで走っていって、あの女を斬ってしまうかもしれない。。
 あまりに強く噛んだので、鉄錆びた血の味が口中にひろがった。
 その後、玄馬は幾度も嘉宣の許に足を運んだ。その場に土下座して
―どうか、殿。お考え直して下さりませ。我らが真の主君と仰ぐのは、木檜氏直系のお血を引かるる殿のみにござる。重臣一同、殿のご帰還を心よりお待ち致しておる次第にござれば、何卒、お戻り願い上げ奉りまする。
 そう懇願したのも一度や二度ではなかった。
 だが、嘉宣が上屋敷、及び領国の木檜に帰ることは二度となかった。
 橘乃の死を知った翌日、嘉宣は自ら願い出て英泉寺の住持日照を導師として剃髪した。
 号は宣照(せんしよう)。時にまだ二十歳の若さであった。
 木檜藩の十四代藩主は分家から十歳の万菊丸を迎え、万菊丸改め嘉淑(よしひで)が継ぐ。