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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(後編)

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 浪江と対面するのは、十六日ぶりであった。あの後、浪江や橘乃に仕えていた他の侍女たちにも累が及んだのではないかと橘乃は心を痛めていたのだ。
「はい、私はもとより他の者たちにもお咎めは一切ございませんでした」
 浪江が嗚咽を洩らしながらも、その後の状況を手短に説明した。
「それは良かった。こたびのことは、そなたらとは何の拘わりもなきことゆえ」
 橘乃は呟くと、淡く微笑した。
「浪江、その手にしておるものを私に渡してくれ」
 ハッと、そのひと言で浪江の顔が強ばり蒼褪めた。
「お、お方さま」
 浪江の唇が震えている。いや、震えているのは唇ばかりではない、指先もぶるぶるとまるで瘧にかかったように震えていた。
「いかがした、躊躇うことはない。そなたは命じられて、それを運んできただけにすぎぬのじゃ。何もそなたが罪悪感を憶えることはない」
 浪江の手には、小さな盆があった。湯呑みと、小さな薬包みが一つ。それが何を意味するのか、橘乃はいやというほど判っている。
「お方さまっ、どうか、どうか、この場からお逃げ下さりませ。今なら、見張りの者どもも場を外しておりまする。ここを出て、庭から塀を乗り越えて、運が良ければ脱出も叶いましょう」
 浪江が懸命に言い募るのに、橘乃は首を振る。
「ここを逃げおおせたとしても、何としよう。再び追っ手に捕らえられるのが関の山よ。それに、私が逃走致せば、そなたに無用の嫌疑がかかるは必定」
 橘乃はそっと浪江の肩に手を乗せた。
「浪江、そなたには何度礼を申しても足りぬ。短い間であったが、ようまめやかに仕えてくれた」
「そのような、勿体ないご諚にござります」
 浪江の眼に再び涙が溢れた。
「春瑶院さまはよほど人の心を弄ぶのがお好きと見ゆる。私に仕えていたそなたに毒薬を運ばせるなど、人の心を持った人間であれば、到底思いつかぬこと。そなたには辛く、いやな役目をさせる。したが、そなたが黄泉路の橋渡しをしてくれるのであらば、私は何も思い残すことはない」
「お方さま。お腹の、お腹の御子さまは」
 浪江が橘乃の膝に取り縋った。
「最早、やむを得ぬこと。元々、この世に縁薄き子だったのでしょう。良いのです、この母も共に逝くのですから、この子も淋しくはないはず。あの世でこの子をしっかりと抱きしめてやろうと思う」
「うっ、ううっ」
 浪江が橘乃の膝に顔を押しつけて泣く。
「お労しや、お労しや」
 橘乃はしばらく浪江の背を撫で続けていたが、やがて静かな声音で言った。
「浪江、済まぬが、しばし外に出ていってはくれぬか」
 浪江が再びハッとした表情になった。
「お方さま―」
 橘乃がそっと頷く。浪江は堪りかねたように顔を覆って部屋を出ていった。
 浪江がいなくなり、再び静寂を取り戻した部屋の中、橘乃は一人端座する。
 この部屋に囚われの身となってから、白小袖しか着ることは許されなかった。
 永の旅立ちにはふさわしい装束だ。
「それでは、お先に参ります。殿」
 橘乃は浪江の置いていった盆から、湯呑みを取り上げた。薬包の包みを開き、紅い粉を一気に口に注ぎ込む。ひと口、白湯を含んでゆっくり呑み下すと、直に胸が焼けるような感覚があり、異常なほどの熱は身体中にひろがった。
「―!」
 橘乃は胸を片手で押さえ、よろよろと立ち上がる。覚束ない脚取りで部屋を横切り、一つだけしかない小さな連子窓を開けた。わずかに開いた窓の向こうに、奥庭が見える。
 真っ赤に咲いた椿が涙で霞んだ眼に滲んで映った。
「殿―!!」
 白は花嫁だけに許された穢れなき色、その純白の小袖を纏うて橘乃がこれより辿るのは黄泉路であった。
 いつか、自分も生まれ変わったなら、今度こそ、白無垢を着て嘉宣の隣に並びたい。
「嘉―宣さま」
 橘乃は恋しい男の名を呼び、ついに力尽きてその場にくずおれた。
 その四半刻後、廊下で待機していた浪江が恐る恐る様子を見に戻ってきた。
「お方さまァー」
 浪江は既に事切れた橘乃の身体を抱きかかえ、慟哭した。橘乃の唇から鮮血がひとすじ糸を引いて落ちている。浪江は手巾で血を拭ってやり、そっとその乱れた髪を撫でた。
 橘乃の死に顔は、存外に安らかで、さほどに苦しんだようには見えなかった。むしろ、やわらかく微笑していて、その安らかな表情は、浪江の眼にうっすらと微笑む観音像にも見えた。
 浪江は橘乃の身体を静かに横たえ、手のひらを合わせる。わずかに開いた連子窓から、降り始めた雪と艶やかに咲き誇る紅椿がかいま見えた。

 一方、橘乃の死をいまだ知らぬ嘉宣は、英泉寺の庫裏の一角に幽閉されていた。
 もう、橘乃とは十日以上も逢っていない。
 捕らえられた時、二人は別々の場所にいた。まず橘乃が連行されたと聞き、表にいた嘉宣は袴の裾を蹴立てるようにして奥向きに急いだ。
 嘉宣が橘乃の部屋に脚を踏み入れようとしたまさにその時、橘乃は屈強な家臣たちに連れてゆかれようとしているところだった。
―貴様ら、誰の許しを得て、このような無体をする?
 鋭く訊ねたが、彼等はただ〝春瑶院さまの仰せにござる〟の繰り返しであった。
―橘乃!
 呼ばわった嘉宣に、橘乃はふわりと笑んだ。
―嘉宣さま、橘乃はいついつまでも嘉宣さまをお慕い致しておりまする。
 まるで、花がほこんでゆくような微笑だった。あの別れ際の表情がいまだに瞼に灼きついている。
 橘乃が連れ去られてほどなくして、嘉宣もまた囚われの身となり、その日のうちにこの木檜氏の菩提寺である英泉寺に護送された。
 幽閉されているとはいえ、扱いはまずまずだ。食事の他に欲しいものを告げれば、大抵はすぐに届けられた。
 三日に一度、江戸家老の望月玄馬が様子を見にやってくる。嘉宣が口にするのは決まって、
―橘乃はどうしておるか?
 そのひと言しかなかった。
 江戸の冬は冷える。しかも、今年はどういうわけか雪が多かった。雪が降れば、夜には更に寒さも厳しくなろう。この寒さが腹の子に障るのではないか。
 自分の身より、身重の橘乃の身が案じられてならない。
 閉じ込められている部屋は板の間で、小さな手焙り一つでは殆ど用をなさない。それほど寒かった。じっとしていると、手や足の先が痺れてくるほどであった。
 嘉宣は庭に面した障子戸を開け、庫裏の庭を眺めている。
 不思議だ。この庭は、橘乃の部屋から眺めた上屋敷の奥庭によく似ている。
 紅色の花をつけている樹も、寄り添い合うようにして立つ楓も何もかもがあの庭を、橘乃と共に過ごした至福の日々を忍ばせる。
 昼過ぎから降り始めた粉雪が殺風景な冬の庭を美しく染め上げてゆく。
 物想いに耽る嘉宣を呼び声が現実に引き戻す。
「―の、殿」
「おお、玄馬か」
 嘉宣は呟くと、戸を開けたまま降り向いた。
「ここは随分と寒うござりますな。お風邪など召されては一大事。もちっと大きな火鉢を用意させましょう」
 玄馬が大仰に肩を竦めて見せるのに、嘉宣は笑った。
「俺は罪人だぞ。科人が風邪を引こうが、どうなろうが、たいしたことではなかろうに」