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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(後編)

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 思いもしなかったなりゆきに、橘乃は茫然とするしかなかった。
 母とも頼りにしてきた侍女浪江が泣き叫ぶ声が遠くに聞こえたような気がした。


 静かな刻が流れてゆく。
 ゆっくりと、かつてないほどに穏やかに刻を紡いでゆく。
 しかし、その先に待つ終わりがもうさして遠くではないことを、橘乃は既に悟っていた。
 緩やかな刻の流れの向こうから、ひたひと迫りくる脚音は、多分、黄泉路からの迎えの使者だ。
 この奥向きの一室に押し込められて、既に半月余りが経過した。不思議なことに、日毎に自分の身体が透き通って、心まで透明になってゆくように思える。このままゆけば、いずれ真冬の凍てつく大気に溶けて、なくなってしまうのではないかと思うほどに。
 橘乃が閉じ込められているのは、同じ上屋敷でも最奥部に当たる納戸部屋であった。ここは平素は布団部屋として用いられているが、今回のように奥向きで科人が出た場合に監禁される際にも使われる。むろん、そのようなことは、そう再々あるものではなかったが。
 橘乃は常に端座していた。眼を閉じ、身じろぎもせず座り続ける。
 拷問や尋問が当然なされるものと思っていたのだが、そんなものは一切なかった。仮にも藩主の寵妾であり、その御子を宿している身を慮っての処遇かとも思ったけれど、すぐに、それが大きな誤りであると気付いた。
 取り調べさえせずに、橘乃は科人に仕立て上げられようとしているのだ。もっとも、春瑶院暗殺を企てたのは真のことゆえ、それを罪といわれれば、認めるしかない。
 食事は日に三度、きちんと届けられたが、これまで食していたものとは比べものにならなかった。一汁一菜で、顔が映るような薄い粥と具の殆どない味噌汁だけだ。
 既に覚悟は定めていたが、腹の子のことを考えて、出された食事はきちんと残さず食べた。六月(むつき)を迎えた赤児はますます元気で、腹壁を蹴る力も日毎に強くなってゆく。
 自分でも面妖なことだと思った。一方で死を覚悟しながら、その一方で生きるために、腹の赤児を育てるために物を食べている。
 それは、どんなときでも、けして諦めない橘乃の気性を物語っていたが、周囲の眼には違う印象を与えたようだ。
―太ぇアマだ。ご母堂さまの暗殺などと、大それたことを企てておきながら、よくもあのように悪びれず平気な顔をしておられるものよ。しかも、己が生命は風前の灯火というに、三度の飯も残さず平らげる。並の神経では、できぬことよ。
 部屋の外には四六時中、見張りの侍が二人もしくは三人ついている。彼等がひそひそと小声で囁き合っているのを、橘乃もたまに耳にすることがあった。
―流石に殿を色香で惑わし、国を傾けようとした怖ろしき女子だの。
―されど、儂(わし)には、家中で取り沙汰されるほど稀代の妖婦には見えぬがのう。儚げな風情の手弱女(たおやめ)ではないか。
―それそれ、そこが曲者よ。あのように虫も殺さぬ大人しげな顔をして、寝所では殿を惑溺させた怖ろしき妖婦だからのう。
―しかし、あのように良き女なら、儂も一度は是非誑かされてみたいものじゃ。
―これこれ、滅多なことを申すでない。そのような言葉を万が一、誰ぞに聞かれたら何とする。おぬし、すぐに首が飛ぶぞ。何しろ、あの女は重罪人だ。
 監禁されて十六日めの朝、見憶えのある武士が一人やって来た。滅多に顔を見ることはなかったが、その男が江戸家老の望月(もちづき)玄馬(げんば)であることはすぐに判った。
「それがしがここに参ったからには、どのようなご沙汰が下ったかは既にご存じでありましょうな。これより後、侍女が運んでくる薬湯をどうか何も仰らずにお飲み下され。さすれば、あなた一人が罪を着ることになり、殿のお生命だけは助かりましょう」
 橘乃は端座したまま、落ち着いた様子で玄馬の話に耳を傾けていた。
「承知致しました」
 取り乱すこともなく、泣き叫ぶわけでもない。きっちりと背を伸ばし、玄馬を見つめる両眼(りようまなこ)はどこまでも澄んでいた。
 立ち上がりかけた玄馬がふと思い出したように問うた。
「そうそう、大切なことを訊くのは忘れるところであった。橘乃さま、今回のご母堂さまお生命を狙い奉る一件の首謀者はいかに」
 まるで取って付けたような質問だ。最初に嘉宣をその気にさせたのは確かに橘乃に相違ないが、この謀を成し遂げるために誰が中心となって動いたのか、玄馬にはいやというほど判っているはずだろうに。
 だが、橘乃一人に罪を着せるためには、この質問はとても重要な意味を持つのだ。
 春瑶院はこの際、橘乃と嘉宣もろとも潰してしまおうと目論んでいるのだろうが、家老を初め重臣たちは、恐らくは嘉宣の生命だけは助けたいと思っているはずだ。
「そのようなこと、今更申し上げずとも、もうお判りでございましょうに。こたびのことはすべて私が一人で画策したまでのことにて、殿は一切拘わりございませぬ」
 橘乃は凜として自らの罪を認めた。
 藩主直属の忍び集団影は、藩主以外の命はきかない。彼等を動かせる権限を持つのは、嘉宣ただ一人なのだ。幾ら藩主の寵愛が厚いからとはいえ、一介の側室である橘乃にその影集団を動かすだけの力はない。
 長年江戸家老を勤め上げてきた老練な玄馬であれば、そのようなことは百も承知であろうに、判り切った質問をする。
 だが、それは嘉宣にとっては悪くない。
 橘乃が自分一人の罪だと認めることで、嘉宣は生命の危機を脱するだろう。
 ぎりぎりのところで、最愛の男の生命だけは守りたい。それが橘乃の最後の願いであった。
「判り申した。その言葉、確かに承り、皆に伝えましょう」
 玄馬は頷くと、深々と頭を下げ部屋を出ていった。
 磨き抜かれた廊下は森閑として、脚許から冷気が伝わってくるようだ。玄馬は先刻の橘乃の凜とした佇まいを思い出し、今更ながらに感嘆した。
 まだ十八になったばかりと申すに、何ともはや肝の据わった女子よ。
 死を宣告されているというのに、いささかも狼狽えることもなく、背筋を伸ばして玄馬を真っすぐに見返していた瞳の輝き、強さ。
 これが男であれば、表で誰にも適わぬほどの才覚と度量を示し、お家の役に立ったやもしれぬ。はるかな戦国の世ならば、名を挙げ、立身しただろう。
 あの女は生まれてくる時代と性別を間違え、それがあの女の最大の不幸だったのだ。
 もしかしたら、あの女は皆の申すように、根っからの淫婦でも妖婦でもなかったのやもしれぬな。
 玄馬は心の中で呟きながら、吹き抜けになった渡り廊下に佇む。
 庭の片隅でひっそりと花開く紅椿が何故か、先刻見たばかりの女の姿と重なった。

 玄馬が去った後、室内は先刻以上の静けさで満たされた。
 更に一刻は過ぎたと思われる頃、次の訪問者が現れた。
「お方さま」
 浪江は橘乃の顔を見るなり、その場に打ち伏して号泣した。
「お方さまがここに押し込められてからというもの、気が気ではございませんでした。ご懐妊中の御身で一体、どうしていらっしゃるかとそればかりご案じ申し上げておりました」
「そなたは無事であったか」