妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(後編)
嘉宣の鋭いひと声が放たれたときには、もうこれでおしまいだと眼を瞑った。
自分は殿の寵を失い、皆に憐れな棄てられた女よと嘲笑された挙げ句、明日の朝には骸となり果て、この広大な屋敷のどこかで発見されるのだろう。
だが、幸運にも天は琴路を助けたのだ。
まさに間一髪の時、ふじがどこからともなく現れ、ニィーと可愛い声で啼いた。ふじが動くと、首輪の鈴も鳴る。内心、琴路は更にヒヤリと身の凍る想いをしたものだが、かえって、ふじの立てた物音が琴路の危機を救った。
―何じゃ、猫か。
嘉宣の張りつめた声から警戒心が消えていいた。
その夜は細い月が出ていて、全くの闇夜というわけではなかった。しかも、近くには、どうやら手練れの刺客がいたらしい。琴路自身は全く眼にすることはなかったが、琴路も影と呼ばれる存在がこの木檜藩で何を意味するのかは知っていた。
懸命に身を隠していた最中、突如として頭上でゴウッと烈しい風の唸りを聞いた。恐らくは、あれが影の存在を物語る何よりの証だろう。風のごとく動き、闇のごとく存在する。
真の名ばかりか、男女の性別さえ他人には明かさないという正体不明の忍び集団、それが木檜藩の隠密として抱えられる影一味であった。
あの時、影が琴路の存在に気付いていたかどうかは判らない。訓練された忍びに、どう気配を殺したとて琴路ごときが気付かれないはずはないのだが、本当に気付かなかったのか、それとも、殺すほどの価値もないと思われたのか。
いずれにせよ、冷酷非道を謳われる影に情けをかけられたわけではないことだけは確かだ。
とにもかくにも、琴路は、こうして九死に一生を得た。
琴路の話に春瑶院は眉一つ動かさず聞き入った。
「なるほど、そなたの言い分はよう判った」
「事が事だけにどうしたら良いものか、迷うておりましたのも確かにござります。それゆえ、事を知ってすぐには参上叶わなかった次第」
琴路はすべてを語り終え、その場に再び平伏した。
「そなたの衷心、けして悪いようにはせぬゆえ、安堵するが良い。いずれ近々、上屋敷よりそなたの身柄をこちらに引き取ろう。追って沙汰あるまでは、そなたは上屋敷に立ち戻り、何も知らぬ顔で過ごすが良い」
春瑶院は優しげな声音で囁くと、琴路を下がらせた。
「これは思わぬ拾い物をしたものよ。こちらから動かずとも、向こうから動いてくれたとはのう。まさに余計な手間をかけずに、邪魔者が始末できる」
春瑶院は派手に化粧した面を歪め、ほくそ笑んだ。
早速、腹心の侍女歌山に命じて下屋敷の人間すべてを改めさせたところ、曲者はすぐに見つかった。
年始めに、時雨という名の若い下女が賄い方に入っている。二十歳を幾つか出たばかりのなかなかに整った面立ちの娘だと報告を受けた。下級藩士の娘という触れ込みになっているが、身許や素姓など、影は何とでもしてしまう。藩主が後ろ盾についているのだから、身分の偽装など容易いのだ。
春瑶院の動きは素早かった。その日のうちに時雨を捕らえさせた。時雨は酷い拷問にかけられたが、口を割ることなく一昼夜にわたる責め苦に耐え抜いた末、自ら舌を噛み切って生命を絶った。訓練された影であれば、当然のことだ。
どの道、任務に失敗すれば、口封じの意味も兼ねて殺されるのだ。敵方に捕らえられた時点で、時雨の命運は既に尽きていたのだ。
だが、春瑶院にとって、影の一匹や二匹、いなくなったところで、痛くもかゆくもない。
大切なのは、嘉宣から実の母である春瑶院暗殺の命を受けた影が下屋敷に紛れ込んでいた―、だたそれだけの事実なのだ。影が自白しなかったと、一体、誰が明言できよう?
命じられた任務については守秘を徹底的に義務づけられているにも拘わらず、愚かにも嘉宣の放った影は、春瑶院暗殺をあっさりと白状した。酷い拷問により、影はあえなく落命―。
これで良い、これで良いではないか。
筋書は十分。役者も揃った。後は最後のとどめを刺すばかり、それで今回の茶番はすべて終わり、舞台は終わる。
春瑶院は今こそ、ひたすら憎み続けてきた男に復讐の瞬間が来たのだと思った。憎しみと同じだけ、いや、憎しみよりも更に深く、深く愛した男。
彼女の瞳に、亡き良人の貌が甦る。
春瑶院が誰よりも愛し、そして憎んだ男。
―さようなら、あなた。
これでやっと楽になれる。憎しみから解き放たれ、私は自由になれる。
あなたに生き写しのあの息子さえ、この世からいなくなれば。
時雨が自害して果てたとの知らせを受け、彼女は直ちに追捕の兵を上屋敷に差し向けた。標的は、彼女に昔の屈辱を改めて思い起こさせ、暴言の限りを吐いたあの生意気な若造と、その息子を色香で籠絡し次の藩主の母になり上がろうと大それた野望を抱く小娘。
あの二人だけは、けして生かしてはおけない。
その日は寒い一日となった。
前日から降り続いた雪は朝には一旦は止んだものの、昼過ぎから再び降り始めた。
橘乃にとっては、最後の仕上げとなる日、運命の日となるはずの日だ。水気をたっぷりと含んだ牡丹雪はさらさらと降り注ぐ。
重たげに花をつけた椿の樹の花や葉の上に白い雪が薄く積もっていた。
橘乃は凍てつく寒さにも拘わらず、部屋の障子を開き、庭を眺めるともなしに眺めていた。
今頃、あの女は惨めに血にまみれ、自らの流した血の海の中でのたうち回りながら、犯してきた罪の数々を悔いていることだろう。
今こそ、思い知るが良い。
けして母から愛されなかった子の侘びしさ、切なさ、やるせなさを。
嘉宣さま、これで、あなたさまを苦しめてきた鬼のような女はこの世からいなくなりました。
心の中でそっと愛しい男に呼びかけたその時。
ポトリと音がして、橘乃は弾かれたように面を上げた。
見れば、椿の花が幾つか庭に落ちている。椿の花が花ごと落ちるのは別に珍しいことではないけれど、風もないのに、同時にこんなにたくさんの花が落ちるなんて。
そんなこともあるものなのだろうか。
何か得体の知れぬ胸騒ぎを感じた橘乃の耳を、男の野太い声が打った。
「橘乃どの、畏れ多くも殿のご生母さま春瑶院さまのお生命を縮め参らせようとした罪、最早、言い逃れは叶わぬ。大人しう来られい」
振り向くと、いかつい猪のような赤ら顔の男が立っていた。その他にも何人もの家臣が橘乃を取り囲んでいる。
「これは一体、いかなることじゃ。殿はこのことをご承知か? 言われなき罪でこの私を引き立てたと殿がお知りにならば、そなたらもただでは相済まぬぞ」
橘乃が精一杯の威厳を込めて言い放つと、猪武者が鼻を鳴らした。
「その殿もまた、春瑶院さまご暗殺の疑いをかけられ、既にこちらは英泉寺の方へお籠もりあそばされている。幾らそなたが殿のご威光を傘に着ようと、殿は最早、事実上、この木檜の国の藩主ではござらぬ。さっさと罪を認めて観念することじゃ」
計画は失敗したのだ!!
一体、どこから事が露見したのだろうか。
万が一、影が暗殺に失敗したのだとしても、影は囚われる前に自ら生命を絶つように義務づけられている。任務の失敗が即ち己れの生命の終わりとなるのだ。
ゆえに、影から情報が漏れることは万が一にもあり得ない。
では、何故?
作品名:妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(後編) 作家名:東 めぐみ