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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(後編)

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     【四】

 年が明けた早々、下屋敷の春瑶院をひそかに訪ねてきた者があった。お高祖頭巾を目深に被り、目立たぬ地味な小袖を纏った女はまだ若く、終始、おどおどとした印象で人眼を気にしているように見えた。
 追い返しても良かったのだが、その時、春瑶院がその女に逢ってみる気になったのも、何かしらの勘が働いたのだろう。
 春瑶院はその者を客用の座敷ではなく、自分の居室に案内させた。通常、外部の者との対面はすべて専用の座敷で行われる。下屋敷もまた上屋敷と同様で、表と奥は厳然と隔てられており、女たちの住まう奥向きには藩主やその一族の男子以外は一切立ち入り禁止となっている。
 むろん、下屋敷の奥向きの主は春瑶院その人である。表には表の、奥向きには奥向きの来客用の座敷がそれぞれ用意されているのだ。
 春瑶院がその突然の来訪者を自室に招いたのには理由があった。
「ただ今、上屋敷においてげに怖ろしき謀(はかりごと)が進んでおります」
 取り次ぎに出た侍女に、女は確かにそう告げたというのだ。侍女が幾ら問いただしてみても、女はそれ以上は語らず、とにかく一刻も早く春瑶院さまにお逢いしたいの一点張りだった。
「春瑶院さまにはご機嫌麗しく恐悦至極―」
 平伏して口上を述べる女を、春瑶院は冷めた眼でじいっと観察する。
「長口上は良い。何の用で参ったかは知らぬが、まずそなたの名を訊こう」
 形式張った挨拶を遮り、春瑶院は傲岸な口調で言った。
「私は上屋敷の奥向きにご奉公する琴路と申します」
 女はいっそう頭を畳に押しつける。
 春瑶院の脳裡に、何かが引っかかった。
 琴路という名に聞き憶えがある。そういえば、琴路というのは、嘉宣の側室の一人ではなかったか。側室とはいっても、まだ御子もあげてはおらず、橘乃が新しく召し上げられてからというもの、既に嘉宣に忘れ去られて久しいと聞いている。
 が、その側室ともあろう者が何故、伴も連れず、しかも身を隠すようにして春瑶院を訪れてきたのか。
 春瑶院は浮かんだ疑念を表には出さず、声をやわらげた。
「ホウ、して、上屋敷に仕えるそなたが何ゆえ、わらわを訪ねて参ったのであろうか」
「実は、春瑶院さまに少しでも早くお伝えせねばならぬことがございまして、まかり越しました。事があまりにも重大で畏れ多いゆえ、こうして私が一人で参った次第にござります」
 琴路と名乗った女は、平伏したまま言う。
「そうか、それはご苦労。外聞をはばかる話というのであれば、苦しうない。もっと近う、こちらへ」
 手招きすると、琴路は顔を伏せたまま膝行してくる。
 春瑶院は近寄ってきた琴路の被っていた頭巾をいきなり外した。
「あっ」
 琴路が小さな叫びを上げる。頭巾の下から現れたのは、まだ若い女だった。二十歳にもなってはいないだろう。しかし、春瑶院ですら、何故、このような取り立てて美しくもない女に嘉宣の手が付いたのかは解しかねた。
 女の価値は美醜だけで決まるものではない。さほど美しくなくとも、愛敬があるとか、話上手、聞き上手で相手の心を捉えて離さないという魅力もあるだろう。また、才知に溢れ、打てば響くような反応をする女、それとはなく気配りのできる女も、男にとっては一緒にいて愉しい相手に相違ない。
 だが、眼前のこの女は、そのどれにも当てはまらなかった。春瑶院は嘉宣の寵愛を一身に集めている橘乃という女に逢ったことはない。噂では、橘乃は風にそよぐ花のようにたおやかな風情の美貌だという。加えて聡い質らしく、嘉宣を歓ばせるのは何も夜毎の閨の中だけではないらしい。
 このようなつまらない女であれば、橘乃とやらの出現で嘉宣の関心が橘乃一人に移ってしまうのも致し方ないとも思えた。
 が、今はこの女が美しかろうが醜かろうが、どうでも良い。
 春瑶院は、ある種の期待を込めて琴路を見つめた。
「そなた、取り次ぎに出た歌(うた)山(やま)に、物騒なことを申したそうな」
―ただ今、上屋敷において、げに怖ろしき謀が進んでおります。
 考えようによっては、春瑶院にとって邪魔者を一網打尽にする千載一遇の機会となるかもしれない。
 春瑶院が水を向けると、琴路はあっさりと頷いた。
「は、実は、私、十日ほど前に怖ろしい話を耳に入れましてございます」
 琴路は更に声を潜めた。
 あれは忘れもしない、今から十日前の夜、その日は大晦日であった。随明寺の除夜の鐘が鳴り始めた頃、琴路の部屋から一匹の猫が逃げ出した。ふじと名付けられたその猫は、半年前から飼い始めたばかりのまだ仔猫だった。
 半年前、橘乃が嘉宣に召され、新たな側室となって以来、琴路は嘉宣の寵を完全に失った。夜毎、独り寝の淋しさと悔しさに苛まれながら、長い夜を過ごすのにも辟易して、気慰みに飼い始めた猫だったのだ。
 ふじは全体に黄土色の毛をしており、ところどころに斑が入っている。くりくりとした瞳の可愛らしい仔猫だ。我が子か妹のように可愛がっていた仔猫の突然の失跡に、琴路は多いに慌てふためいた。
 その時、既に琴路は寝床に入っており、毎夜のようにふじと共に眠りについていた。控えの間にいるはずの侍女はうたた寝しているらしく、声をかけても返事がない。
 やむなく琴路は起き出して自分でふじを探すことにした。庭に面した障子戸を開け、草履を突っかけて庭に降り立った。上屋敷の庭は広いが、幸いにも、ふじは鈴のついた首輪をつけてやっている。チリチリと鳴る愛らしい音を頼りに追いかけている中に、いつしか琴路は奥庭でもひときわ奥まった箇所に来てしまっていた。
―ふじ、ふじ。
 小声で呼んでみても、ふじはいっかな姿を現さない。
 そのときのことだ。あの世にも大それた陰謀を耳にしてしまったのは。
―この者、名を時雨という。まだ若いが、なかなかの手練れよ。この時雨を下屋敷に遣わそうと思う。
 嘉宣の声が、琴路には黄泉路よりの使者のように怖ろしげに響いた。
 その場を支配する尋常ならざる雰囲気に琴路は気圧され、咄嗟に椿の後ろに深く身を隠した。
―やり方は、そなたに任せる。ただし、絶対に予が放った忍びだと気付かれてはならぬ。あちらにも影はいるはずだ。良いか、心してゆけ。
 そこまで聞いてしまっては、琴路もその科白が何を意味するものは判った。
 殿はお袋さま(春瑶院)を亡き者になさるおつもりなのだ!
 自分は一体、何という怖ろしき謀を知ってしまったのかと、考えただけで身震いがした。
 春瑶院と嘉宣が実の母子でありながら、長年、対立を続けてきたことを知らぬ者は木檜藩にはいない。それほど、血を分けたこの二人の不仲は周知の事実なのだ。ゆえに、嘉宣が春瑶院暗殺を企てたからとて、特に愕きもしないが、もし自分がこの陰謀を洩れ聞いてしまったと嘉宣に知られれば、間違いなく今度は自分が消される。
 ここは何としても、嘉宣に気取られぬように立ち去らねばならない。琴路は焦りに焦った。しかし、こういった場合、焦れば焦るほど、上手くはゆかないものである。
 ひそかに立ち去ろうとして、琴路は迂闊にも椿の繁みに当たってしまい、小さな物音を立てたのだ。万事休す―、その時は、本気で最期を覚悟した。
―何者ッ。