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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)

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 その矢先、突如として橘乃という娘に嘉宣が溺れるようになり、すべては坂道を転がるように逆転したのだ。今や嘉宣は何をするにも〝橘乃、橘乃はおらぬか〟とお気に入りの愛妾を側から離さない。あれほど熱心に政務に取り組もうとしていた若者がたった一人の女のために、すべてを投げだし酒色に耽る怠惰な日々にどっぷりと頭まで浸かっている。
―言いたい者には言わせておけば良い。
 それが、橘乃の言い分だ。初めのうちは、あることないこと囁かれるのが辛くてたまらなかったけれど、今はもう平気だ。悔しければ、橘乃が昇りつめたこの場所まで昇ってくれば良いのだ。それができないから、適わないから、橘乃を妬んで悪しき噂ばかり流している。所詮は、負け犬の遠吠えにすぎない。
 橘乃がとりとめもない想いに浸っていたその時、嘉宣がうっすらと眼を開いた。
「起きていらっしゃったのですか?」
 橘乃が問いかけると、嘉宣は二、三度眼をまたたかせた。
「いや、今、目ざめたところだ」
 嘉宣は橘乃の肩からそっと腕を外し、身を起こした。腹這いになると、枕許に置いてある煙草盆を引き寄せる。ほどなく、紫煙がゆらゆらと立ち上った。
「今宵のそなたは、格別であった」
 何を言うのかと思ったら、憎らしいことを言う。橘乃が黙っていると、嘉宣はニヤリと口の端を持ち上げる。
「そなたとは身体の相性が良いのかな、それとも、そなたが人一倍感じやすい身体をしているのだろうか」
「殿の意地悪」
 橘乃は軽く嘉宣を睨んだ。
「ふうむ、そうやって怒った顔も実に良い、そそられる」
 嘉宣は笑いを含んだ声音で言うと、ふいにまたゴロリと仰向けになった。
 橘乃に寄り添いながら、嘉宣が橘乃の肩を抱き寄せた。そのままの体勢で嘉宣はずっと天井を眺めている。
「何をお考えになっていらっしゃいますの?」
 深い意味はなく、ただ長すぎる沈黙がたまらなくなっての問いだった。
 だが、嘉宣は真面目な顔で応えてくる。
「幼き日のことを思い出していた」
「ご幼少の頃のことを?」
「そうだ、俺が七つ、八つの頃のことだったか。奥庭に金盞花が咲いていただろう? あれを摘んで花束にして母上に差し上げたんだ。元々、姉上のあのお部屋は母上がお住まいだったゆえな」
「春瑶院(しゆんよういん)さまは、さぞかしお歓びになったでございましょうね」
 何の気なしに相槌を打っただけだったが、その刹那、嘉宣の声が低くなった。
「どうして、そのように思う」
「それは、お母上さまなれば―」
 幼い我が子が庭の花を摘んで花束に―、母親としての歓びを噛みしめる瞬間ではないのだろうか。だが、嘉宣はいつになく暗い顔でかぶりを振った。
「あの母上がお歓びになどなるものか。俺が差し出した花束を、母上はさも汚いものに触れるかのようにその場で放り投げた」
「そんな、まさか」
 橘乃の方が衝撃に蒼褪めた。
 橘乃を無表情に見つめ、嘉宣が肩を竦める。
「そなたは当家の奥向きに参って、日が浅いゆえ、何も知らぬとしても不思議はないが」
 嘉宣は淡々とまるで他人事のように話した。
「母上が俺をお嫌いなのは、もう誰もが知っていることだ」
「そのようなことがあるはずがございませぬ。親が血の分けた我が子を厭うだなどと」
 橘乃は我が身の育った環境を自然に思い出していた。謹厳実直を絵に描いたような父、冗談の一つも言えぬ父とは正反対で、変わり身の早い母。どちらも個性的な人たちだが、橘乃を娘として慈しみ大切に育ててくれた。
 もし今、自分が殿を惑わせた妖婦として世間から誹られるのが辛いとすれば、それは、自分の悪評のために両親がさぞ肩身の狭い想いをしているに違いないということだ。
 自分は何と言われても構いはしない。しかし、生真面目な父や何より世間体を気にする母にとっては、あの酷い噂はこたえているだろう。現に父は娘の橘乃が藩主の愛妾となった時点で、三十石から二百石へと破格の加増を申し渡された。むろん、藩主直々の命である。
 だが、父はそのありがたい命を謹んで固辞した。
―己が娘がその身を殿に差し出した代わりに禄を頂いたとなっては、それではまるで娘を売ったのと同じではないか。そのような卑劣な真似は断固としてできぬ。
 いかにも、あの父らしい科白であった。
 そこまでして潔白を立てようとしても、世間の人は橘乃ばかりか父までをも悪し様に言う。娘が殿のご寵愛を受けていることを傘に着て、偉そうにしていると。
「さあ、巷の常識までは知らぬが、少なくとも俺の母は俺を憎んでいたぞ」
 嘉宣はまるで何でもないことのように平然と言った。それが、さも当たり前であるかのように。
 嘉宣の脳裡にあの日の光景が甦る。
―母が大切にしている庭の花を勝手に摘むとは何事か。そのような泥棒のような真似をするとは、情けなや。
 嘉宣を睨みつけた、あのときの母の烈しいまなざしと憤怒の形相は、まさに夜叉のようであった。嘉宣はあまりの怖ろしさに泣き出してしまい、失禁してしまったほどだ。
 粗相をしてしまったことで、更に母を激怒させ、嘉宣は乳母に抱きかかえられて這々の体でその場から連れ去られた。
 何故、自分だけが母に疎まれるのか。
 その悲痛な叫びは、今でも止むことはない。
 もう亡くなってしまった乳母が、その時、嘉宣をひしと抱きしめて〝お可哀想に〟と泣いていたのを朧に憶えている。
「俺は父に生き写しなんだそうだ」
 突然の言葉に、橘乃はまた眼を見開いた。
「お父上さまにお似ましになっていらっしゃるのですか」
「ああ、自分ではさほど似ているとは思わなかったが、皆に言わせれば、双子のように似ているそうな」
「親子でおわすのですもの。似ていらっしゃるのも当然でございましょう」
「だから、なのだ」
「え―」
 橘乃が小首を傾げる。
「父上は母上を遠ざけて、あまたの側室を侍らせていた。もっとも、俺が父上であったとしても、あんな女は願い下げだ。気位ばかり高くて、面白みもなく、優しげな言葉一つ言えぬ。あれでは、父上が早々に母上を見限ったのも道理よ」
「そのような、実のお母上を悪し様に仰せになられてはなりませぬ。親子の情は海よりも深く、その絆は岩山よりも固いと申します」
「それは、その方の父の売け売りか?」
「えっ、それはまあ、そうでございますが」
 いつも千造が橘乃に言い聞かせていた言葉には違いない。正直に頷く。
 と、嘉宣がプッと吹き出した。
「そなたは面白い女だな。閨の中では信じられぬほどに奔放になる癖に、普段はまるで童のようだ」
「まっ、童などとは酷いおっしゃり様でございますこと。殿は本当に意地悪なお方にございますね」
 橘乃が頬を膨らませると、嘉宣は声を上げて笑った。
「ほれ、そのようにすぐ拗ねるところも童そのものではないか」
「もう、知りませぬ」
 橘乃はプイと横を向く。
 嘉宣はひとしきり愉しげに笑っていたかと思うと、ふっとその笑いが止んだ。
 急に黙り込んだ男を、橘乃は訝しげに見つめる。
「母上は俺を見ていると、父上を思い出すのであろうよ」
 抑揚のない声は、まるで地の底から響いてくるように聞こえた。