妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)
「私は構わぬ。橘乃さえ側にいてくれれば、良い。たとえ、そなたの心が他にあろうと、いつまででも待つつもりだ。たとえ未練だと嘲笑(あざわらわ)れようと、私は幼い頃からそなただけを見てきたのだ。今更、そなた以外の女を妻に迎えるつもりなどない」
初めて耳にする幸之進の言葉だった。もっと早くにその言葉を聞いていたら。否、多分、自分の気持ちはそれでも変わらなかっただろう。たとえその前に誰と出逢っていたとしても、傷ついた手負いの獣のような眼をしたあの男に魅せられたに違いない。
「申し訳ございません」
橘乃は深々と頭を下げた。
幸之進が悄然と肩を落として去ってゆく。昔から、がっかりしたときには必ず右肩を心もち下げるようにして歩くのが幸之進の癖だった。互いに兄と妹のようにして育ち、今日という日まで幸之進の妻になるのだと信じて疑っていなかった。だけど、運命の歯車はもう回り始めた。
何かが動こうとしている。その先に自分を待ち受けているものは何なのだろう。橘乃はともすれば尻込みしそうになる我が身を叱咤した。母譲りの気性で、いつでも怖じ気づいて後へ引くよりは、己れを鼓舞して先に進むという習性がごく自然に身についていた。
前へ前へ。ひたすら進んで、己れの手にできるものは掴み取る。自分の人生は自分で切り開き、幸運は我が手で掴み取るもの。そう信じてきた橘乃には、これから進む道が怖ろしくもあり、愉しみでもあった。
何より、あの深いまなざしを持つ男の傍にいられる。それは橘乃にとっての歓びに他ならない。
熟れた果実のような太陽が地平の向こうに沈んでゆく。群れをなして飛んでゆく鳥の影が濃く黒くはっきりと見える。
すっかり宵の色に染まりつつある空を橘乃はいつまでも立ち尽くして眺めていた。
【弐】
この世の沈黙という沈黙をすべて集めたかのような深い静寂(しじま)の底に時折、かすかに響く声があった。絹のようなしっとりとした、それでいて熱を孕んだ灼熱の砂のような―極めて官能的な声だ。
「うっ、ぁああっ」
橘乃のあえかな声が洩れる度に、白い膚が徐々にうっすらと染まってゆく。
嘉宣の長い指先が橘乃の身体を形作る線を丹念に辿ってゆく。唇から頬、首筋、鎖骨と通り、なだらかな曲線を描く細腰、臍の窪み、更にはその下の秘められた狭間へと続く。
嘉宣の指が秘所の最奥へと挿し入れられた。
「あっ、あ―」
ひっそりと息づく蕾に触れられ、橘乃はひときわ高い嬌声を放った。
「ここだな」
嘉宣が納得したように一人で頷き、先刻と同じ場所を指で強く押す。すると、橘乃は更に腰をくねらせ、喘いだ。
「殿、もう―」
「ん? 何がもうなのだ?」
嘉宣が貌を近づけると、橘乃は潤んだまなざしを向けて訴える。
「もう、許して。苦しくて―たまらない」
「嘘をつけ。苦しいのではなく、気持ち良すぎてたまらないんだろう?」
貌を覗き込まれ、橘乃は弱々しく首を振った。
「こんな風に毎晩、何度も感じていては、おかしくなってしまいます」
「気持ち良いのであれば、素直にその感情に身を任せていれば良いではないか。のう、そなたのここは、このように濡れておる。口で何と申そうと、身体は正直に気持ちが良いと申しておるぞ?」
嘉宣が笑いながら、更にもう一度、同じ場所を指で抉る。
「ああっ」
橘乃の華奢な身体が魚のように弓なりに跳ねた。
「ここが橘乃のいちばん感じるところなんだろう?」
耳許で熱く濡れた声が囁く。
言葉でも橘乃を煽りながら、嘉宣は橘乃が反応を示した箇所ばかりを幾度も責め立てる。もう一方の手でふくよかな乳房を揉みしだき、そっと桃色の先端を口に含み音を立てて吸った。
上と下を同時に責め立てられては、たまったものではない。橘乃は直に渦巻く悦楽の波に呑まれ、その夜、はや幾度めになるか判らぬ絶頂を迎えた。
いかほどの刻が経ったのだろう。
気が付けば、橘乃はやわらかな褥に寝かされていた。嘉宣が傍らで眠っている。橘乃自身、浅い微睡みに落ちたらしい。度重なる淫事で身体は泥のように疲れ果てている。その割には、不思議と意識は冴え渡っていた。
橘乃も嘉宣も一糸纏わぬ姿だ。嘉宣の腕が剥き出しの橘乃の肩に回っている。橘乃はまるで仔猫が親猫に甘えて身をすり寄せるように、嘉宣の逞しい胸に自分の頬を押し当てた。 愛しい人、大切な人。
嘉宣をたとえるとすれば、そんな言葉がふさわしいのだろう。でも、それは合っているようで、どこか違っている気もする。嘉宣と出逢うまで、橘乃は男を知らなかった。幸之進という婚約者がいても、接吻一つさえ知らなかったのだ。
その無垢な橘乃の身体を嘉宣はあっさりと作り替えた。恐らく嘉宣は橘乃当人よりも彼女の身体のことを知っているのではないか。どこをどうすれば、橘乃がどんな反応を示し、どんな声を上げるか。
自分でさえ触れたことのない場所に触れられるどころか、時には指だけでなく舌で触れ責められることもある。最初は死ぬほど恥ずかしかったけれど、慣れると怖ろしいことに、今度は死ぬほど気持ち良く感じるようになった。
その場所に触れられると、自分の意思ではどうにもならない状態になってしまう。嘉宣のまなざしの前に何もかも晒し、あられもない姿で嬌声を上げ続け、身をくねらせ続けなければならなかった。閨での嘉宣は人が変わったように獰猛になり、ひと晩中、橘乃は容赦なく恥辱の限りを尽くすように抱かれる。正直に言うと、抱かれるというよりは犯されるといった方が正しいかもしれない。
が、最初はその冷酷ともいえる嘉宣の愛撫に戸惑い、怯えていた橘乃も今では、すっかり慣れてしまった。むしろ、昼間でも嘉宣との閨の中でのあれこれを思い出し、思わず白昼から淫らな妄想に耽る自分を恥じることがあるほどだ。
今の自分を幸之進が見たら、どう思うだろうか。きっと淫売、売女と心から蔑まれるに違いない。幸之進という許婚者がいながら、あっさりと手のひらを返したように藩主に身投げ出した浅ましい女。
幸之進だけではなく、家中の誰もが橘乃をそんな眼で見ているのを知らぬわけではない。確かに、言われるとおりかもしれない。
橘乃を側に置くようになって、嘉宣は変わった。橘乃と夜中どころか昼近くまで寝所に籠もり、淫らな行為に耽っている。当然、政(まつりごと)もなおざりになり、表より奥に入り浸っていることが多くなる。
―殿を色香で誑かし、籠絡し堕落させた妖婦。
それが、今の橘乃に対する見方であった。
父嘉達の跡を継いだばかりのこの二年間、嘉宣は良き藩主になろうと彼なりに努力していた。参勤交代で国許に戻るのはまだ一年余り後になるが、年貢の軽減を提案し、大雨が降ればすぐに洪水になる川の治水工事を行い、大いに米の収穫高を上げた。国許でも江戸表でも先代を凌ぐ賢君の器と早くも嘉宣を褒め称え、期待する声は日増しに高くなっていた。
作品名:妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編) 作家名:東 めぐみ