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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)

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 枕許の行灯が淡い光を室内に投げかけている。そのお陰で、閨の中は辛うじて物の文(あや)目(め)が識別できた。庭に面した障子に二人の影が映り、ゆらゆらと揺れている。
 嘉宣の瞳はその影を見つめているようにも思えたが、その実、何も映してはいないのだろう。昏(くら)い瞳は強い虚無に支配されていて、あたかも無限の闇に続いているかのようだ。
 こんなに哀しげな瞳をした人を、橘乃はこれまで見たことはなかった。
 ああ、この人は淋しいのだ。
 橘乃は心の底から思った。母に振り向いて貰いたい、母に愛されたい。幼いときから、その想いは変わらず、今もその一心に違いない。ただ、長じた分だけ、母を憎む心もまた育ってきていることも確かなのだ。愛されないなら、いっそのこと憎めば良い。肉親の情愛にしろ、男女間の恋情にしろ、烈しい愛は時として憎悪に変わり得るものだ。
 母を恋い慕っていた嘉宣がいつしか母を憎むようになったとしても不思議はない。
 嘉宣の心の闇を知った今では、尚更、この男を愛しく思える。初めて嘉宣にお目見えした日、嘉宣の瞳に孤独が宿っていると感じたけれど、あれは思い違いなどではなかった。
 今日、橘乃は漸く嘉宣の瞳に落ちた翳りの原因を知ったのだった。
 嘉宣の腕が橘乃の肩に回り、強く引き寄せる。
「俺を心から愛してくれたのは、亡くなった乳母と嫁がれた姉上、そして橘乃、そなただけだ」
 その科白を裏返せば、
―橘乃、そなただけは、けして俺を裏切らないでくれ。俺の側から離れないでくれ。
 と、そう聞こえる。
 橘乃の心に愛しさが込み上げた。
「殿、橘乃は殿のお側を絶対に離れたりは致しませぬ」
 嘉宣が橘乃の胸に顔を埋める。やわらかな胸乳に貌を伏せ、もしかしたら嘉宣が今思うのは母の懐の温もりなのかもしれなかった。
 孔子を誰よりも尊敬する謹厳な父から、橘乃は物心つかぬ頃より常に言い聞かされて育ってきた。親を尊ばぬ者こそ、不幸極まりなき輩だと。だが、子を慈愛を込めて大切に育てる両親ばかりだとは限らない。どのように無慈悲な親だとしても、それでも、子は親を尊ばねばならないのだろうか。
 嘉宣の話を聞いて、橘乃はふと固く信じてきた父の教えに疑念を抱いた。
 愛する男に親としての愛情を与えず、こんなに哀しい瞳をさせるようになったのは、すべて母である春瑶院のせいだ。そう思うと、貌も見たことのない嘉宣の母が憎らしくさえ思えてくる。嘉宣が母親を憎むのはともかく、橘乃には関わりなき話なのだけれど。
 庭の方でさやさやと竹林の揺れる音が聞こえる。夜も更けて、風が出てきたのだろうか。