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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)

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「殿には、そなたをお傍にお召しになりたいとの仰せじゃ。とはいえ、そなたに既に先に約束した許婚者がおることは百も承知。そなたがどうしても厭と申すのであれば、この話、やはり私から殿にお断り申し上げても良い」
 輝姫が幾分、口調をやわらげると、橘乃は平伏したまま言った。
「いえ、そのお話、謹んでお受けさせて頂きまする」
 その瞬間、輝姫は我が耳を疑った。
―今、この娘は何と申した?
「橘乃、この場には我ら二人しかおらぬゆえ、遠慮は無用。面を上げて、そなたの言い分をとくと聞かせてくれぬか。聞くところ、そなたには勘定方に仕える飯塚なる者と夫婦(めおと)の約束をしておるそうではないか。それを今更、約束を反故にしても良いと?」
 畳みかけるように問うと、橘乃が初めて面を上げた。その白い面には淡い微笑が浮かんでいる。
「殿の仰せとあれば、致し方ございませぬ」
 仕方がない―というよりは、むしろ喜色に溢れ歓んでいるように見えるのは気のせいなのか。
―この娘は駄目だ!!
 その時、輝姫は強い危機感を憶えた。何故、自分は弟にこの娘を引き合わせてしまったのだろうと今更ながらに苦い後悔が湧き上がる。
 恐らく幾ら口を酸っぱくして言い聞かせようと、人の世の道理を説こうと、あの弟は聞く耳を持たないに相違ない。
 橘乃を退がらせた後、輝姫は一人、脇息にもたれかかり物想いに耽った。
 自分は怖い火種となり得る女を弟に近付けてしまったのだと迫りくる恐怖に震えながら。

 一方、輝姫が後悔と不安に苛まれているその同じ頃、橘乃の許を一人の男が訪ねていた。
 その日の夕刻、橘乃は一日だけの宿下がりを願い出て許された。むろん、実家に戻ったのは、今回の件を父に話し、許婚者の飯塚幸之進に破談を願い出るためである。
 律儀で一徹な父千造は娘の話を聞くなり〝うむ〟と唸り、絶句した。父のその表情から、今回の話をけして歓んではおらぬことがありありと判る。
 それはそうだろう、父と幸之進の父は無二の盟友であり、幼少の砌からの付き合いであった。その友を裏切り、友の息子に恥をかかせるような仕打ちを易々とできるはずがない。
 何より、曲がったことや不正の大嫌いな父なのだ。顔色を失くして黙り込む父の傍らで、現実的な母親おさとは一人、華やいだ声を上げている。
「ええい、煩いッ。かようなときにかしましい声を出すでない」
 千造が一喝し、おさとと橘乃は黙って顔を見合わせる。
 丁度、折しもその時、許婚者の飯塚幸之進が訪(おとの)うてきたのだった。
 二人は庭先に黙って立っていた。庭といっても、ささやかな猫の額ほどのもので、庭と呼ぶにもおこがましいような代物だ。上屋敷の中に与えられている馬廻組、及びその家族が住まう長屋は、極めて質素な佇まいだ。
 長屋の裏に、父が丹精している菜園がある。頂くお扶持だけでは到底食べてはゆけないため、細々と野菜を作り、自分たちの食べる物を賄っているのだ。 
 西の空がまるで血を思わせるような不気味な色に染まっていた。巨大な太陽が熟(う)れ切った柿のように赤々と輝いていた。今にも沈みゆこうとする太陽にじいっと視線を注ぎながら、幸之進は何も言わず立ち尽くしている。
「―文(ふみ)を読んだ。本気なのか?」
 幸之進の整った若々しい横顔がかすかに強ばっている。無理もない。誰だって、突然、あんな話を言い出されたら、動揺するに決まっている。
 しかし、幸之進の動揺を見ても、橘乃の心は少しも揺らがなかった。ただ、心を掠めたのは、わずかばかりの罪悪感だった。
 幸之進のことは兄のように慕っていた。好きかと問われれば、迷いなく好きだと応えることができる。でも、それは、男性として認めた上での気持ちではない。あくまでも、兄か親戚の従兄に対するような親近感だ。
 それでも良いと思っていた。恋も知らず、何も知らぬまま、親の言うがままに嫁ぐのが当時の娘たちの常識なのだ。幸之進とであれば、穏やかな、慎ましいけれど安定感のある暮らしを送れるだろう。彼ならば、妻を労り、子を可愛がり、愛しい者たちのために日々、身を粉にして働く―そんな理想的な良人になるだろう。
 だが。幸か不幸か、橘乃は知ってしまった。
 孤独な眼をして、自分の方を憑かれたように見つめていた男。何故だか、あの瞬間、自分とあの男は同類なのだと思った。まるで飢えた獣が永遠に満たされることなく空腹を抱(かか)えているように、常に何かを追い求められずにはいられない。
 橘乃の父千造は頑固だが、父親としては申し分なかった。三十石では一家三人が暮らしてゆくのがやっとという有り様ではあったが、日々の暮らしは穏やかに流れていった。母おさとは父とは対照的で、極めて現実志向が強い。この度でも、娘や稲木家に何の益ももたらさぬ結婚の約束などさっさと破棄すれば良いと結論づけている。
「出逢うてしもうたのです」
「―?」
 幸之進がかすかに眉を顰める。
 橘乃は淡く微笑んだ。
「出逢ってしまったものは、もう元には戻れない」
「そなた、殿に惚れたのか?」
 幸之進が両拳にグッと力を込めた。
「判りません」
 橘乃は正直な気持ちを告げる。この男と婚約を交わしたのは十年も前のことだ。少なくとも十年間も許婚であった男に対しては、最低限の礼儀と思いやりは示すべきだと思った。そして、この場合、橘乃が考える優しさ
とは、真実を包み隠さず話すことしかない。
「判らない? そなたは、どこまで私を愚弄するつもりだ」
「愚弄などするつもりは毛頭ございません。でも、真のことなのです。殿とお逢いしたのは昨日が初めてのことで、たった一度きり、しかもわずかな時間のことゆえ、たとえ自分の気持ちだと申しても、はきとは言えません」
 ただ惹かれたのだ。あの孤独で傷ついた瞳から眼を離せなかった。それを恋と呼ぶ人も、惚れたと形容する人もいるのだろうが、橘乃にはまだ自覚はない。
 庭の片隅に橙色の花が群れ固まって咲いていた。まるで暮れゆく空の色をそっくりそのまま写し取ったような夕陽の色。
 そういえば、と、橘乃は今更ながらに思い出していた。照姫さまのお居間から見渡せる庭にも金盞花がきれいに咲いていた。もっとも、姫さまのお庭のお花は、橙色ではなく黄色だったけれど。
 あの方は、金盞花を随分と気に掛けていらっしゃるようだった。この季節になれば、割とどこにでも見かける花なのに、何故か生まれて初めて見るように眼を瞠っておいでだった。
 そう、あの時。
―そなたが活けたのか?
 深い声で問われた時、心が、身体が震えそうになった。何故、この男(ひと)は、こんなにも自分の魂を揺さぶるのか。橘乃には皆目見当もつきかねたけれど、あの一瞬であの男は橘乃心に棲みついてしまったのだ。
「―そなたは、それで真に幸せなのか?」
 幸之進のひと声に、橘乃は急速に現実に引き戻される。
 橘乃は、ゆるりと首を振る。
「判りませぬ。ただ、はっきりと申し上げられるとすれば、こんな―今のような中途半端な気持ちのまま幸之進さまの許に嫁ぐことはできない、それだけです」