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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)

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 嘉宣は輝姫に向かって言った。
「どうもこう申しては失礼にございますが、このお部屋は殺風景にございました。このように眼にも鮮やかな花があるのは実に良きものでございます」
 暗に、少女の機転を賞めたのだ。
「そなた、名を何と申す?」
 再び少女に視線を向けると、今度は先刻よりははっきりとした声で〝橘乃と申します〟と返ってきた。
「橘乃―」
 呟くと、
「橘と書いて、〝きつ〟と読ませます」
 鈴を転がすような声が実に心地良い。
「橘か、良き名だ」
「お賞めにあずかり、恐悦に存じます」
 橘乃と名乗った少女はもう一度平伏すると、静かに立ち去っていった。
「随分とあの娘のことをお気にかけておいでですのね」
 輝姫が笑いながら言う。
「姉上、あの者を私に下さいませぬか」
 単刀直入に言った嘉宣を見つめていた輝姫の顔が見る間に強ばってゆく。
「殿、それだけはなりませぬ! 橘乃は既に先を言い交わした男がいるのですよ。許婚者のいる娘をいくら殿であろうとお望みにはなれません」
「許婚者―、それは一体、どこの男ですか」
「それを知って、どうなさるおつもりなのでしょう」
 輝姫はいつになく硬い声音で言った。
「そなたに人の道に外れるようなことをさせるわけには参りませぬ」
「姉上! どうかお願いだ。あの娘を、橘乃を私にくれ」
 嘉宣は自分でも滑稽に思えるほど必死に姉に縋った。
「殿、人の妻に手を出して、どうなさるおつもりなのですか? 藩主とは自ら道を正し、人々の範となるべき立場のお方にございますよ?」
 姉の懸命な説得にも、嘉宣は一向に引く気はなかった。かえって反対されるほど、押しとどめられるほどに、想いは募ってゆく。
「妻ではございませぬ、いまだ祝言を挙げておらぬと申すのなら、妻ではない」
 輝姫が難しい表情で首を振った。
「子どものような駄々をこねるのはお止めなされませ」
 三つの童をたしなめるような物言いに、嘉宣はカッとなった。
「姉上もつい今し方、仰せになられたではございませぬか、一日も早く妻を娶り、子をなして人並みの家庭と呼べるものを作れと」
「それとこれとは話が違いましょう。橘乃を妻にというのならともかく、一時の気紛れで慰み者にするおつもりなのを黙って見ているわけには参りませぬ」
「一時の気紛れなどではござらぬッ」
 押し問答が際限なく続く。嘉宣は懸命な面持ちで懇願した。
「姉上、姉上が嫁がれたら、私の居場所はもうどこにもない。心を預ける人もいない。お願いだ、橘乃を私にくれ!!」
 長い、永遠に続くかと思える静寂があった。
 ホウッと小さな溜息が輝姫から零れ落ちる。
「私はやはり、あなたを甘やかし過ぎたようですね、殿。殿はその御身に一国を背負われるお方。もっと強く逞しくおなりあそばされねば。なのに、私は殿にそうやって頼み込まれると、どうしても願いを聞き入れてしまう。それが殿には良くないことだと判っていながらも、結局は望みどおりにしてきました」
 姉の声が今は遠く聞こえる。嘉宣は眼を閉じて、橘乃の貌を思い浮かべてみた。冬に降る雪のように白い膚、ほんのりと染まった健康そうな頬、黒曜石のように冴え冴えと輝く瞳、そして思わず塞ぎたくなる艶めかしい唇。
 あの深い瞳の奥底に潜む心を知り、思いきり溺れてしまいたい。そんな烈しい情動に突き動かされそうになる。
 ―それが運命の恋の始まりの瞬間だった。たったひと刹那で彼は心を射抜かれたのだ。
 ふと何げなく再び庭に視線を投げた嘉宣の眼に、黄色い花群れが飛び込んできた。七月の眩しい陽光を受けて咲くその花は、金盞花―、橘乃が輝姫の居間に飾ったものと全く同じだ。
 一見、清楚で浄らかそうで、儚げでいながら、その底に途方もない情熱を秘めているような花だ。どこか、あの橘乃という娘に似ているような気がした。
 嘉宣は眼を細め、庭の金盞花に眺め入った。
 庭先から風が吹きつけてきて、花の香りを運んでくるが、かすかな残り香が花のかおりなのか、あの女の移り香なのかは判らない。
 真昼の昼下がりの風はどこか生温かい。嘉宣は、ただ風に吹かれるに任せていた。

 輝姫はその翌日、橘乃を呼んだ。
 橘乃は微禄とはいえ、れきとした武士であり木檜藩士の娘である。父は馬廻り役三十石を賜る稲木千造国豊といい、無骨だが律儀な働き者として知られている。
 橘乃には既に親同士の決めた許婚者がいて、相手は勘定方の下役を務める飯塚幸(こう)之(の)進(しん)であった。十七の橘乃より七歳年長の二十四、眉目秀麗で聡明、その上、進取の気性に富む若者と風評も良い。
 二人の婚約が取り決められたのは橘乃がまだ六、七歳のときゆえ、その間に恋愛感情が芽生えていたとは考えにくい。
 しかし、父親同士が幼なじみだという両家は橘乃が物心つくかつかぬ中から、頻繁に行き来していたという。成長するにつれ、二人の間に恋心が芽生え育っていったとしても何の不思議もなかった。
 輝姫は心が鉛のように重たかった。結局、あの弟の願い事をいつもこうして聞き入れてしまう自分がつくづく不甲斐ない。弟に〝甘い〟ことが、巡り巡って、弟のために良くはないと判っていながら、必死に頼み込まれると、つい押し切られてしまうのだ。
 仮に親たちが勝手に取り決めたものだとしても、いざ許婚者と別れろと言われれば、若い娘のことだ、すっかり取り乱してしまって泣き出すのではないか。
 そう思えば、余計に心が沈み込むようだ。
 輝姫の前で手をつかえる橘乃は、微動だにしない。一体、姫さまおん直々に呼び出しを受けるとは何の粗相をしでかしたのかと怯えているのだろう。
 輝姫の橘乃に対する印象は、寡黙な娘という程度のものだった。黙って片隅に身を寄せていても、ハッと人眼を引くような天性の美貌に恵まれていても、己れの美しさをひけらかすことなく、黙々と用事をこなしている。
 橘乃が奉公に上がったのは、ほんの三月(みつき)ばかり前のことになる。
 あれだけの美貌でありながら、これまで嘉宣の眼に止まらなかったのは、腰元見習いであったため、藩主の御前に出ることは許されなかったからだ。それが、つい半月前、見習いから正式な奥女中となり、晴れてお目見えの叶う身になったのである。
 嘉宣は橘乃の活けた金盞花にいたく興味をそそられたようであった。ああいった細やかな心遣いのできる者というのも気に入った原因の一つではあるだろう。
 だが、昨日、嘉宣の前にあの娘を出したのは、やはり失敗だったかもしれない。
 まさか弟が既に言い交わした男のいる娘に横恋慕するとは思ってもいなかったのだ―。
 輝姫は眼の前の娘を複雑な想いで見ながら、ひと息に言った。
「今日、そなたを呼んだのは他でもない。明日より、殿付きとして働いて貰いたいと告げるためよ」
「お付け替え、にございますか?」
 ひと口に奥女中といっても、藩主付き、奥方付きと仕える主人はそれぞれ異なる。仕える主人が変わることを〝お付け替え〟と呼ぶのだ。
「その理由をお伺い致しましても、よろしいでしょうか」
 橘乃の問いに、輝姫はやや強ばった口調で言った。