妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)
ほどなく衣ずれの音が聞こえ、襖が外側から静かに開いた。嘉宣は居住まいを正して、姉を迎え入れた。父が亡くなって二年、十七で家督を継いだ彼も十九になった。
嘉宣はこの北国(ほつこく)に位置する小藩の数えて十三代目の藩主となる。藩主の座に就いて後も、嘉宣と姉輝姫の仲は睦まじかった。嘉宣はしょっ中、姉の許を訪れ、長いときには半日近くもいて他愛ない雑談に打ち興じることもあった。
流石に藩主となってからは嘉宣が上座になったが、今でも幼い童の頃そのままに、この姉にだけは頭が上がらない。
父嘉達が亡くなったのは丁度、二年前のこの季節であった。まだ四十一歳の、働き盛りの歳である。死因は心ノ臓の発作で、さして苦しむこともなく呆気ないほど早く息を引き取った。
姉の縁談が本決まりになって、ひと安心したのかもしれない。我が子には極めて関心の薄かった父が唯一、親らしい熱心さと情を見せたのがこの姉のために嫁入り先を決めることであった。
あの父でさえもが心を砕いていた姉の嫁入りである。ましてや、嘉宣は、この優しく大らかな姉を心から慕っていた。父や母がけして与えてくれることのなかった肉親の情愛を、この姉がひたすら注いでくれた。
父も母も嘉宣には血の通った他人であることは、今も昔も変わらない。彼にとって、血の繋がりがもたらす縁(えにし)で結ばれているのは、ただ姉一人であった。父の遺志を継ぐためにも、姉のためにも、姉の輿入れについては万端を整え、心から寿(ことほ)いで送り出す心づもりであった。
元々、木檜藩の三万石という石高はあくまでも表向きのものであり、内証は豊かで実際には六万石とも八万石ともいわれていた。嘉宣は愛する姉輝姫のために惜しみなく財をはたいて嫁入り支度を整えさせ、その調度や衣裳はまさに将軍家の姫君のお輿入れもかくやといわんばりのきらびやかさであった。
今日もいつものように嘉宣が床の間を背にして座ると、輝姫が向かい合うような形でやや下に座る。
「もう、支度もすっかり出来上がったようにございますな」
今朝、木檜藩の江戸上屋敷の奥向きを取り締まる老女(侍女頭)の浦江から〝輝姫さまのお支度これにて万端あい整いましてございまする〟と報告を受けたばかりである。
弟の言葉に、滅多とそのような表情を見せることのない姉がかすかに頬を染めた。
「何もかも殿のお陰にございます」
嫁ぐ日を間近に控えた若い女らしい心の華やぎが溢れている。けして美しいとはいえない姉だが、頬を赤らめて恥じらうその姿は微笑ましい。
「姉上が嫁がれては淋しくなりまする」
これもありのままの想いを吐露したにすぎない。嘉宣の洩らした何げない言葉に、輝姫の白い面が翳った。
が、すぐに、にこやかに微笑み、弟をからかうような口調で返す。
「嘘をおっしゃるのもほどほどになさいませ」
「真のことにござりまする。姉上には幼き砌より、何かをしてはよくお小言を頂いて参りましたゆえ」
笑みを含んだ声音で応えると、輝姫が軽やかな声を立てて笑った。
「まっ、どうせそのようなことだと思いました。殿がそのように殊勝なことを仰せにならるるはずがございませんもの」
嘉宣はふと真顔になった。
「いいえ、姉上。私は姉上に世辞など申しませぬ。私にとって、姉上は真、母代わりといえるお方にございました。これまで慈しんで頂いたご恩、終生忘れは致しませぬ。九州はここよりはるかに遠うございますが、どうかお健やかに過ごされますよう、どこにおりましても私は姉上のお幸せをお祈り致しておりまする」
「嘉宣どの―」
輝姫が言葉をつまらせた。その眼に光るものがある。
「正直申せば、私は殿をお一人にして嫁ぐのが不安なのです。殿は昔から人一倍淋しがりやでいらしたのですもの。されど、嫁がぬ姉がいつまでも厄介になっているのもまた、殿にはお気の毒というものと覚悟を定めました。殿、殿も一日も早うご正室をお迎えになられ、お世継を儲けなされませ」
「厄介などと、そのようなこと、ゆめ仰せになられますな。私はいついつまでも姉上に傍にいて頂きたい。さりながら、そのような私の子どもじみた我がままのために姉上の大切な一生を台なしにすることはできぬと、私の方こそ覚悟を決めて姉上をお見送りすることにしたのです」
嘉宣が言うと、輝姫は人さし指で涙をぬぐった。
「殿、私どもは思えば親の愛情や家族の絆というものには一切無縁に育ちました。お亡くなりあそばしたお父上も今は下屋敷にお住まいの母上も、お二人共にご自分の血を分けた子だというのに私たちを顧みることもなく―。殿、今からでも遅くはないと私は思うのです。子どもの頃に作れなかった家族、その絆というものを、私は嫁いでゆく彼(か)の地で新しく作ってゆこうと存じます。どうか殿も一日も早く奥方を娶られ、お子をなして今度こそ親と子が親子らしうに過ごせる、ごくささやかな家庭、家族というものをお作りあそばしませ」
両親に顧みられることなく育った姉弟ならではの会話だった。
「ここで〝はい〟と申し上げて姉上をご安心させて差し上げるのが孝行というものにございましょうが、姉上、残念なことに、私はまだ妻を娶る気はございませぬ」
姉にだけは有りのままの自分を晒け出したい。嘉宣はそう思って言ったのだが、輝姫はいつものように優しい笑みで応えてはくれなかった。
「何故? 殿には、どなたかお心にかけられる娘がいるのですか?」
「いえ、そのような女がいれば良いのですが、生憎とそのような者は一人もおらぬのですよ」
これも嘉宣が事実をありのままに述べたときのことだった。
襖が再び静かに開く。ほどなく若い侍女が茶菓を捧げ持ってきた。黒塗りの高坏には色とりどりの干菓子が盛ってある。高坏を持った侍女の後ろに湯呑みを載せた丸盆を持つ侍女が続く。
菓子を持った女は、これまでにも幾度か見かけたことがある。確か木檜家に父祖の代から仕える重臣の妻ではなかったか。その三十過ぎほどの侍女が恭しく菓子を御前に置くと、その後ろに続く侍女が代わって茶托に乗った湯呑みを傍らに置く。
嘉宣は何げなく面を上げた。その刹那、嘉宣の視線と侍女の視線が交わった。相手もまた、大きな瞳を見開いて嘉宣を見つめている。
その侍女はまだ若かった。若いとはいっても、十六、七くらいで彼とたいした違いはないだろう。膚が透き通るように白く、思わず手を伸ばして触れてみたい衝動に駆られるほど唇はふっくらと瑞々しかった。
黒々とした大きな眼は濡れたように潤んでいて、じっと見つめていると思わず引き込まれてしまいそうだ。
最早、嘉宣の眼には、もう一人の侍女の顔など眼中になかった。彼のまなざしは、眼前の一人の少女だけを捉えて離さない。
それにしても、見たこのとない貌だ。恐らくは新参の侍女なのだろう。そう思った時、ふと閃くものがあった。
「あの花は、そなたが活けたのか?」
思うより先に言葉が飛び出していた。
藩主直々に問われ、少女は初めて我に返ったようだ。慌ててうつむき、その場に平伏した。まだ御殿奉公に上がってまもない身がよもや殿から直接声をかけられるとは予想だにしなかったのだろう。
短い沈黙の後、〝はい〟と消え入りそうな声で頷く。
作品名:妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編) 作家名:東 めぐみ