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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)

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 姉を訪れて、かれこれ一刻近くも待たされた苛立ちもこの花を見ていると、しばし忘れた。見憶えのある侍女の貌をひととおり順に思い出していったが、このような細やかな気遣いのできる侍女は、ここにはいなかったはずだと考える。少なくとも、姉の許には。
 嘉宣は、しばしばこの姉の許を訪れた。腹違いの弟妹は数え切れないほどいるが、同じ母から生まれたのは、この姉と八つ下の妹のみであった。
 彼の幼い日の記憶に、母に抱かれた自分の姿は一つとしてない。何故か、母は彼に冷淡であり続けた。
 物心ついたかどうかという頑是ない年頃には、その理由が判らず、何とか母に振り向いて貰いたくて、随分と努力したものだった。庭で見つけた露草で小さな花束をこしらえてみたり、苦手な手習いを認めて貰いたい一心で頑張ったり。
 それらは大人から見れば、ささやかではあったが、まだ五歳の童子には、けしてささやかではなく、むしろ労を要するものだった。
 長ずるにつれ、彼は己れだけが何ゆえ、疎まれるのか次第に判った。姉と妹は、母に外見も性格もそっくりなのだ。自分だけが母に似ておらず、父に似ている。
 自分が嫌われる理由を知って以来、彼は母に好かれようと努力するのを止めた。母はお世辞にも美人とはいえなかった。いくら白粉で隠そうとしても隠し切れぬほど浅黒い膚に、狐のようにつり上がった細い眼(まなこ)、ぽってりと厚い唇。
 どれ一つ取っても、賞められたものではなかった。おまけに婚家よりも格上の十万石出石(でいし)藩から嫁いできているから、端から良人である父を見下し我が物顔のし放題。あんな有り様では父が早々と愛想を尽かし逃げ出してしまうのも致し方のないことだ。
 成長した嘉宣は次第に母のような女を押しつけられた父にむしろ同情さえ憶えるようになった。その点、父は美男であった。何も自分に似ているからというわけではない。涼しげな眼許にせよ、整った鼻梁にせよ、とにかく整いすぎるほど整った容貌であった。
 かといって軟弱な印象は全くなく、武芸の鍛錬も欠かさぬ屈強な身体つきをしており、まさに美丈夫と呼ぶにふさわしかった。
 そんな父だから、女にはモテる。父の方も妻との間がうまくゆかないその憂さを晴らすように、次々と奥向きの女たちに手を付けた。その結果、嘉宣には大勢の異腹の弟妹が誕生することになり、父は息子十一人、娘六人の合わせて十七人の子福者となった。
 父に似ているというただそれだけの理由で嫌われていると知ってから、嘉宣は母に寄り付こうともしなくなった。彼にとっては、二つ上のこの姉が母であった。
 実際、姉である輝(てる)姫は実に面倒見の良い女である。器量良しとはいえないが、気立ての良さはその不器量さを補って余るほどであった。妻にと望むのなら、このような女性の方が好ましいのではと、嘉宣はつくづく思う。
 ―もっとも、やはり大名の姫にありがちな我がままさも持っていて、このように訪ねてくるなり一刻以上も延々と待たされるときには、ついあの大嫌いな母の血をやはり姉も受け継いでいるのかと思ってしまう。
 嫁げば、間違いなく良妻賢母になるであろうと思える姉がどうして二十一になるまで独り身でいたのか。それは姉自身に罪はない。
 姉が最初に婚約したのはまだ七歳のときのことだ。相手はやはり大名の公子で、三つ年上の十歳だった。しかし、正式に婚約が整った翌年、相手の少年は十一歳で早世、次に十四歳で結納を交わした信州高遠藩の嫡子もその三年後、挙式をひと月後に控えてという時期に病死した。
 二度も婚約者に先立たれる不幸が重なり、流石に姉の許にもたらされる縁談はなくなった。誰しも己れの息子は可愛い。いつしか姉には男をとり殺す―などという実に益体もない悪しき噂がついて回るようになったのだ。
 姉自身、嫁すことを既に諦めていたようなところもあり、嘉宣はそんな姉の心を不憫にも思っていた。そして父嘉達(よしたつ)の想いもまた、同様であったと見え、父は手を尽くして娘の嫁ぎ先を探し回った結果、何と九州の島津藩への嫁入りが決まった。
 島津藩といえば、七十七万石を領する外様の雄藩である。嘉達も木檜藩とのあまりの格差に一度は縁談を丁重に辞退したものの、向こう側の是非にもという要望に根負けして、ついに承諾したのだった。
 もっとも相手は姉より十五歳も年上で、しかも後添えという話ではあるが、それでも大藩への輿入れは、たった三万石の木檜藩から見れば、玉の輿に相違なかった。
 輝姫はかねてより楚々として控えめな人柄であると噂されていた。島津家ではその点を高く評価しており、今回の縁組が実現したのである。島津家には既に前(さき)の正室の生んだ嫡子がいる。輝姫のような女性であれば、万が一、男子を成しても我が子を世継にと野心を抱き、無用のお家騒動を引き起こすことはないと期待したのであった。
 また、これは広言はできないが、輝姫に二度も許婚者を失っている負い目があり、更に島津藩とは格段の違いの小藩の出であるということも大いに関係しただろう。引け目があれば、婚家であまり大きな顔もできないと踏んだのだ。
 先代島津藩主とは異なり、姉の伴侶となる人は、逝った先妻を哀れんで、ずっと独身を通してきたという。ちなみに現藩主斉(なり)範(のり)の父斉(なり)柄(えだ)もやはり二十代で妻を喪ったが、父親の方は二十人近い側室を有していることで知られていた。
 斉範はそんな父の姿を見て、思うところがあったらしい。自らは身を慎み、側室の一人もおらず、姉が嫁げば、妻として労り大切にするに違いなかった。
 嘉宣は姉のためにこの婚儀を心から歓んだ。今度こそ、姉はきっと幸せになれるだろう。わずか二つ違いながら、母に甘えられぬ淋しさ、侘びしさを慰め、たった一人、嘉宣を優しく抱きしめ、微笑みかけてくれた人だった。
 母が遠い人なのとはまた、別の意味で父も彼にとっては手の届かない存在だった。次々と違う女を侍らせ、子をなしていったのは良かったが、父はけして真の意味で〝父親〟になろうとはしなかった。生まれ落ちた我が子に一切の関心を示さず、父はひたすら政にのみ己が情熱を注いでいった。
 恐らく、だからこそ父は〝木檜藩中興の祖〟と領民や家臣からも慕われたのだろう。確かに為政者としては優れていたのかもしれないが、その反面、肉親に対しては冷たい男であった。
 要するに、嘉宣は両親の愛情など欠片(かけら)ほども与えられず、この歳まで生い立ったのである。
 それはともかく、嘉宣は脚繁く姉の許に通う分、姉に仕える侍女たちの顔は皆、見憶えている。少なくとも、その中に季節の花を飾るような風雅を解する者はいないはずだ。
 これがあの母であれば、年中花を絶やさぬようさぞ口煩い―もっとも、それが大名家では常識といえたが―のだろうが、姉は大らかというか、いささか身辺を飾ることにかけては構わなさすぎるのだ。
 従って、姉に仕える者たちも皆、女主人に似て良くいえば、のんびりとしており、まぁ悪くいえば、不精者揃いである。
 嘉宣がここに再々脚を運ぶのには、姉の許に来ればホッとするというのもあった。彼自身、あまり窮屈な環境は苦手なのだ。