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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の三

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「大人しく俺の物になりゃア、簪でも紅でも買ってやって贅沢のし放題をさせてやるってえのによ」
 駿太郞の手が伸び、まつのか細い手首を掴む。
「いやっ」
 まつが渾身の力で抵抗したため、駿太郞の苛立ちは頂点に達した。
「往生際の悪い女だぜ」
 まつの小柄な身体が強い力で突き飛ばされ、呆気なく布団に転がる。まるで血の色を彷彿とさせる緋色の布団は、何とも淫猥で思わず眼を背けたくなる。この上で一体、何人の男と女が淫らな行いに耽ったのだろう。きちんと手入れされていないのか、悪臭が匂ってくるのも気持ちが悪かった。
「まつ、やっと俺の物に」
 やに下がった駿太郞の唇が首筋に触れ、口づけが振るように落とされる。あまりのおぞましさに、まつは眼を固く瞑る。
「ああっ、痛ッ」
 突如として鎖骨の近くに鋭い痛みが走った。―噛まれたのだ。華奢な肢体が弓なりに仰け反る。閉じた眼からひとすじの涙が流れ落ち、頬をつたった。
 まつの思いがけない喘ぎ声に更に欲情と嗜虐心を煽られたのか、駿太郞は憑かれたような性急さでまつの唇を奪った。
 生温い舌が強引に挿し入れられ、まつの口中を欲しいままに蹂躙する。歯列や歯茎をなぞられ、逃げ惑う舌に舌を絡められた。
 厭らしい水音を聞いていると、心まで穢れてゆくようだ。
 その時、まつの瞼に敬資郎の笑顔が浮かんで消えた。
―私はむしろ感謝したいくらいだ。そなたを私に出逢わせてくれた運命に。
―そなたを好きになってしまったのだ。私の妻になってくれぬか、まつ。
―私は諦めぬぞ。そなたが受け容れてくれるまで、何年でも―たとえ百年でも待つ。それゆえ、今、このまま息絶えても良いなどと哀しいことを言うな。それほどに嬉しいのなら、私と一緒に生きて、ずっと私の傍にいてくれ、まつ。
 耳許で囁かれた真摯な言葉の数々は今でもまつの胸を熱くさせ、心をときめかせる。
 敬資郎に〝死んでも良い〟と告げたのは、けして嘘偽りではない。あの瞬間、まつは心底からそう思ったのだ。
 このまま惚れた男に秘密を知られることなく、敬資郎の愛した少女まつとして息絶えることができたなら、どんなにか幸せだろう。
 惚れた男を思い出した途端、まつは再び抵抗を試みた。両手両脚を思いきり振り回す。
 こんな場所で、卑劣な男に汚されたくはない。何としても生きてここを出て、あの方にもう一度お逢いするのだ。
 そして、すべてを包み隠さず話そう。
 真実を知った上でなお、あの方が自分を必要として下さるのなら、そのときこそ、私はあの方のお側にずっといて、あの方と共に生きてゆく。
 もしかしたら、拒まれてしまうかもしれないけれど、それはそれで仕方ない。私は実の母親からも〝化け物〟だと蔑まれ、忌み嫌われた娘だもの。
 そのためにも、こんな愚かな男の慰みものになんか絶対にならない。
 いきなり猛然と抵抗を始めたまつの頬が鳴った。駿太郞が殴ったのだ。この男は水揚げの夜も、まつを容赦なく追いつめ、意のままにならないと知るや、何度も殴った。ただ単に好き者というだけではない、目的や望みを遂げるためには手段を選ばない冷酷で暴力的な、どうしようもない男だ。
 だが、哀しいかな、この男と自分では所詮、力では適わない。抵抗を続けるまつの身体から次第に力が抜けてゆく。
 駿太郞がまつの両手を片手で掴み、余裕の表情で帯を解いてゆく。するすると帯の解かれる音がどこか哀しくも妖しく森閑とした室内に響いた。

 その翌朝、江戸の外れ、和泉橋川から土左衛門が引き上げられた。亡骸は十四、五のまだうら若い娘であった。
 普段は昼間でも人通りのないこの界隈には、山のような人だかりができ、骸を取り巻いている。骸の上には筵がかけられ、物見高い江戸っ子たちが何とか哀れな娘をひとめ見ようと押し寄せていた。
 筵の傍らに岡っ引きと同心と思しき二人の男が佇み、しきりに小声で何かを話し合っている。 
「通してくれッ、通してくれ!」
 その中で、その若侍はひどく目立った。我こそはと伸び上がって骸を見ようとする野次馬たちを次々に乱暴に押しのけてゆく。
「頼む、退いてくれ。ええい、邪魔だ、退かぬか!」
 若者は気違いのように喚き、叫び立てている。
「通してくれ、通してくれ」
 小柄な岡っ引きが傍らの同心に目配せした。
―何だか訳ありのようですぜ。
―見たところ、旗本の倅かどうか、そんなところだろうな。
 二人は親子ほども歳の差があり、定町廻らしい若い同心は怖ろしくひょろ長い。一方、上役よりはゆうに二回りは年上であろう岡っ引きは半白頭で、四角張った将棋の駒のようないかつい顔に鋭い眼光が印象的だった。
 この二人こそが〝塚本の旦那とスッポンの徳〟と呼ばれる名コンビの同心と十手持ちであった。いかにも凡庸で頼りなさそうに見えるこの若い同心がかなかどうして一刀流の免許皆伝の遣い手であり、〝スッポンの徳八〟と二つ名を持つこの老齢の親分は下手人に食いついたら最後、尻尾を出すまで離さない―というのは、彼等の持ち場ではかなり有名な話だ。
「見せ物じゃねえぞ、邪魔だ、邪魔だ」
 岡っ引きは声を張り上げ、筵をめくろうとする不心得な野次馬を撃退した。
 その親分は敬資郎を認めると、すっと音もなく近づいた。態度を少しだけ軟化させる。
「仏の顔をご覧になりやすか?」
「頼む」
 敬資郎が蒼褪めた顔で言う。
 徳八が筵を少しめくると、敬資郎は食い入るように覗き込む。ややあって、擬然と骸を見つめていた彼は、がっくりと肩を落とした。
 低い嗚咽が洩れる。敬資郎は男泣きに泣きながら、まつの頬に濡れてはりついた髪の毛をきれいに整えてやった。喉に巻かれた包帯にはいまだ血が薄く滲み、何とも惨たらしい。
「旦那、お知り合いですかい?」
 頃合いを見計らったように、徳八が声をかける。敬資郎は力なく頷いた。
「旦那、少しだけ、ご足労願えませんかね。一つ、二つ、お訊ねしてえことがありますもんで」
 虚ろな眼を向けた敬資郎に対して、徳八が態度だけは慇懃に言った。しかし、その眼は真冬の夜空のように凍てついていた。
―この男は、私を疑っているのだな。
 敬資郎はぼんやりとした頭で思った。
 番屋で取り調べを受け、漸く解放された後、どこをどう歩いて屋敷まで帰ったのか判らない。まるで雲の上を歩いている覚束ない感覚が続いていた。
 昨夜以降、一睡もしていない。
 敬資郎の脳裡に、悪夢としか思えない昨日から今日にかけての出来事が甦ってゆく。
 随明寺に花見に出かけたはずの志満とまつは夕刻になっても戻らなかった。
 敬資郎は、もうとっくに二人が先に戻っているだろうと道場から帰ってきたのだが、二人の姿は屋敷内にはなかった。陽暮れまで待って、流石に幾ら何でも遅すぎると下男の禎助を探しにゆかせたときは遅かった。
 屋敷を飛び出ていった禎助と入れ替わるように、随明寺の寺男たちに背負われた志満が変わり果てた姿で運び込まれた。
 志満は何者かに襲われたらしく、頭を強打していた。転んだところ、頭をしたたか打ちつけたらしい。
 幸い生命に別状はなく、志満の意識の回復を待ち、事情を聞くことにしたものの、志満の惨状からして、一緒にいたまつの身に何が起こったかは明白であった。