敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の三
―それは、おまっちゃん。血が薄いから、度々、貧血を起こすのですよ。あなたのような娘盛りなら、もっと滋養のあるものをたくさん食べなければなりませんよ。
志満はその時、そう言ってやったものだが、実際にまつの身体に触れてみると、意外に肉もついて、しっかりとしている。むしろ、少女らしいふくよかさよりは、少年のように研ぎ澄まされていて、―この時期特有の少女らしい柔らかさは殆ど感じられなかった。
まつは正気を失ってしまったらしく、眼を閉じたまま微動だにしない。
「どれ、また眩暈でも起こしたのかしらね」
志満はとりあえず、樹の下に横たえたまつの衿許をくつろげたようとした。几帳面な質らしく、帯もきりりと締め上げているから、余計に胸許が苦しいのだろう。それでなくても、この時期は日毎に胸も腰回りも肉がついて、女性らしい体型になってゆくのに、締めすぎていては身体にも良いはずがない。
衿を開いた志満は、何げなく開いた胸許を見やって愕然とした。躊躇いがちに伸ばした手がまつの乳房があるはずの場所を空しくさまよう。
「―そんな、まさか」
志満の血色の良い顔が見る影もなく蒼褪めてゆく。
その時、まつの睫が震えた。
ゆっくりと見開いた瞳が志満を無心に見つめている。
「おまっちゃん、あなた―」
後は声にならなかった。
まつはそろそろと自分の胸許に手をやり、衿が大きくくつろげられているのを知ったようだ。緩んだ衿許からは、幾重にも胸に固く巻かれた布がかいま見えていた。
「とうとう知られてしまったのですね」
まつは哀しげに眼を伏せる。
その姿は誰が見ても、可憐な少女が愁いを帯びているようにしか見えない。
その直後、まつから語られた一切の真実は、志満には到底考え及びもしない話であった―。
すべてを語り終えた後、まつは眼を伏せ、頭を下げた。
「敬資郎さまを初め、志満さんにも本当に良くして頂いたのに、結局、騙すようなことになってしまって、申し訳ありませんでした」
志満は流石に動揺は隠せないものの、気丈な性分だけに、少なくとも表面だけは平静を保っていた。
「良いのですよ。別に、おまっちゃんが私に謝ることはありません。でも、敬資郎さまには、やはりそのことは一日も早くお話しになった方が良いのではありませんか? 謝る謝らないというのは、あなたと若さまとの間の話であって、私とあなたとの間のことではありませんもの」
二人はすっかり無口になってしまい、黙り込んだまま元来た道を辿った。広い境内を抜け、山門をくぐり、石段へと至る。
それでも、まつは階段を降りる時、志満の手を引くことだけは忘れなかった。
―優しい娘なのだ。
志満は宿命というものを今日ほど恨めしく思ったことはない。何故、まつでなければならないのか。女郎屋の前に棄てられていたという苛酷な宿命の上に、更に天はこの娘に背負い切れないほどの試練を背負わせたのか。
また、どうして、敬資郎がめぐり逢った娘が、まつだったのか。彼もまた、まつとは違った意味で厳しい宿命の星の下に生まれた。
共に苛酷な宿命を生きねばならない者同士が運命に導かれるようにして出逢い、強く惹かれ合い、恋に落ちた。ならば、二人が出逢い、烈しい恋に落ちたのもまた予め定められた必然なのか―。
志満がいつになく沈んだ気持ちで考えた時、突如、背後から後頭部に強い衝撃を受けた。
「あっ」
志満のよく肥えた身体がまるで石ころのようにゴロリと音を立てて転がる。
地面に転がった志満は死んでしまったかのように、ぴくりともしない。
まつが仰天して、志満の身体に取り縋った。
「志満さん? 志満さん、しっかりしてッ」
うずくまって志満に呼びかけ続けるまつの視界がふと翳った。
まさか―。
怯えた瞳で見上げた先には、まつが誰よりも逢いたくないと思っていた男の顔。
「畜生、さんざん手間をかけさせやがってよ」
扇屋駿太郞が下卑た薄ら笑いを浮かべている。しかし、その細いつり上がった眼は、少しも笑ってはいなかった。
―怖い。
まつは無意識の中に座り込んだ姿勢で後ろへといざる。
「さあ、お前は俺と来るんだ」
いきなり荷物のように肩に担ぎ上げられ、まつは悲鳴を放った。
「いやっ、何をするの。離して」
そのときだった。まつを軽々と担いだ駿太郞の背中に、志満が全力で体当たりした。
いつしか志満は立ち上がっていたのだ。
「何するんだ、この糞婆ァ」
駿太郞が口汚く罵り、志満の身体を足蹴にする。その拍子に志満は後方に吹っ飛び、何とも厭な音がした。
まつが懸命に振り向くと、志満は頭から血を流してその場に倒れ伏していた。
「人殺しッ。離して、志満さんが、志満さんが死んじゃう」
まつが泣きじゃくりながら、志満に向かって手を差しのべる。
「煩せぇんだよ。婆ァのことなんざ、どうでも良い」
駿太郞が怒鳴る。
人気のない随明寺に、少女の悲鳴が響き渡った。
一方、駿太郞に連れ去られるまつを次第にぼやけてゆく視界に映しながら、志満は己の迂闊さと無念さに歯噛みしていた。
―若さま、申し訳ございませぬ。
この私がついていながら、若さまの大切なお方をみすみす卑劣な男に攫われてしまいました。
辛うじて意思で保っていた力もそこで尽きた。志満は身体中の力が急速に失われてゆくのを自覚し、やがて、意識はそこで途切れた。
変わり果てた姿の志満が随明寺の僧に発見されたのと同じ頃の夕刻。
随明寺の門前道にひっそりと建つ連れ込み宿〝むらさき〟の二階で、まつは恐怖に震えていた。
「お前は初めて見たときから俺の物だ。あの初めての夜も言ったはずだ。どこまで逃げても、地獄の底までだって追いかけるぜ」
駿太郞の細い眼はつり上がり、狂気の光を宿して炯々と異様な輝きを放っている。
この男は最早、まつを手に入れることしか頭になく、その執着は常軌を逸していた。
まつは自分の身に起こっていることが俄には信じられない。
これは、きっと夢、悪い夢だと自分に言い聞かせた。
しかし、夢なら覚めるはずなのに、眼を閉じて開いてみても、状況は何一つ変わらない。
それにしても、おえんは、ついに金に眼が眩んだのだ。〝秘密〟を抱えるまつに客を取らせるだなんて、正気の沙汰とも思えない。悪鬼に魂を売り渡したのでなければ、到底、こんな馬鹿げたことを思いつくはずがない。
重大な秘密を抱える自分を女郎に仕立て上げ、男に抱かせて、それで上手くいくと思っているのだろうか?
水揚げの夜は間一髪のところを辛くも逃げおおせたから良かったものの、駿太郞に着物を剥ぎ取られてしまえば万事休す、すべてが露見する。
「さて、今夜こそ、お前のその身体を堪能させて貰おうか。全く、あの春霧楼の女将もとんだ女(アマ)だ。法外な水揚げ料を先にぶんどっといて、いざとなりゃア、お前を逃がすんだからな」
現実には、まつを逃がしたのは女将ではなく死んだ女郎春風であったが、駿太郞にはどうでも良いことだ。彼が腹立たしいのは、皿の上に乗ったご馳走が今少しで食べられるところで、なくなってしまったという事実、ただそれだけなのだ。
否、駿太郞が最も怒りを憶えたのは、他の誰でもなく、眼前のこの娘に対してである。
作品名:敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の三 作家名:東 めぐみ