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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の三

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 花の影が大池の水面に映り、風が水面を吹き渡る毎に、影もまた揺れる。時折、小鳥が花びらをついばんでいる様も愛らしい。志満はまつと同様に年甲斐もなく歓声を上げて咲き誇る桜に見入った。
 しばらく桜を堪能した後、二人は早々と帰途についた。それでなくとも、まつは春霧楼を脚抜けした身だ。桜に名残は尽きないけれど、その身さえ無事であれば、来年にまた見ることができる。
 そう、時は再びめぐるのだ。自分などのような年寄りはともかく、この若い娘には未来がある。
 若さまのためにも、この娘の身は何としても自分が守らなければ。
 志満には強い想いがあった。赤児の頃、我が手で抱いてあやした敬資郎も既に二十一になった。もう、いつ嫁を迎えても良い年頃だ。
 志満は、敬資郎の複雑な秘密を知っている。時の将軍の公子として生まれながら、生後すぐに稲葉泰膳に預けられた悲運の公子ではあったが、泰膳の薫陶の賜か元々の優れた資質のせいか、立派な若者に成長した。
 敬資郎であれば、人の心を思いやることのできる為政者になれるだろう。だが、志満は二十一年間、敬資郎の成長を守り続けた人間として、彼には我が子に近い親愛の情を抱いていた。この国のゆく末も大切だとは思うけれど、一人の人間として敬資郎には幸せになって欲しいと願っている。
 将軍となれば、敬資郎は顔すらろくに見たことのない高貴な姫君を正室として迎えることになるだろう。代々、徳川将軍家では京から宮家の姫宮か或いは皇室に最も近い血筋を誇る摂関家の姫を御台所に迎える。
 この娘―優しい気性の働き者のまつが間違っても御台所になることはないだろう。
 愛し合った者同士は、結ばれるべきだというのが、志満の持論だ。
 もう十五年近くも前になるが、志満は何度か当主泰膳の夜伽を務めたことがあった。泰膳も志満を憎からず思っていたようで、実際、敬資郎にも言ったように求婚までされた。
 だが、志満は結局、その求婚を辞退した。
 他人は愚か者だ、身の程知らずだと嗤うだろうが、志満自身は今でも自分の選択は間違ってはいなかった信じている。
 泰膳には奥方がいた。そう、既に亡くなった人ではあるが、志満など比べることさえおこがましいような、気品のあるたおやかで美しい女性であった。いや、志満が泰膳の求愛を退けたのは、何も自分が容色の上で亡き夫人に劣るからではない。
 泰膳が奥方に向ける想いの深さが、到底自分に向けられるものとは比にならなかったからだ。奥方は死してなお、泰膳の心を独り占めしていた。あれほどに泰膳が心奪われる夫人がいながら、妻になるなど、とんでもない。
 志満もただの女だ。自分の良人が死んで何年も経つ前妻をいまだに恋々と慕っているのを知りながら、焼きもちをやくなと言われても、それは所詮無理な話だ。
 泰膳は良い加減な男ではないから、生半な気持ちで志満を抱いたわけではないし、求婚だって真摯なものだったに違いない。それでも、彼の心にはしっかりと亡き夫人が棲み続けている。他の女に焦がれる男の妻になるより、たとえ妻という座には座れなくても、男の傍で男のために自分にできることをしたら良い。
 それが、志満なりの愛し方であり、出した結論であった。
 十数年前の自分と泰膳に引きかえ、敬資郎とまつは互いに誰よりも求め合っている。敬資郎にこれほどまでに恋い慕う娘が現れたのだ。
 叶うことなら、志満は彼に誤りのない道を選んで欲しかった。自分のように、この歳になって自分の生きてきた道を振り返った時、この道を選んで良かったのだと得心できるような選択をして欲しいと思う。
 それにしても、と、志満は考える。
 まつという娘は何故、敬資郎の求婚を拒むのだろう。
 いつも強気で押しの強い敬資郎が珍しく気弱なことを言っていたのを、志満は思い出していた。
―どうして、まつは俺の気持ちを受け容れてくれないんだろう。志満、私はそんなに魅力のない男か?
 真剣な面持ちで問うてくるので、思わず吹き出しそうになるのを堪えるのに我慢したけれど。
 うちの若さまに魅力がないなんて、とんでもない。敬資郎が冴えない男だというのなら、江戸市中の若い男は皆、冴えない奴らばかりになってしまう。最近の若い者は皆、生白くて、へなへなした半ペンの出来損ないのような男ばかりじゃないか。ろくに男らしい気概もありゃしない。
 何しろ、敬資郎は男ぶりも良いし、剣の腕も立つ。気性も男らしくさっぱりしているし、男気もあって頼もしい。かといって、がさつなだけでなく、流石は高貴な血筋だけあって、端然とした凛々しさがある。学問の素養も十二分にある。これが多少、身内の贔屓目だとしても、彼に靡かぬ娘など江戸どころか、日本中探してもいないだろう。いたら、お目にかかりたいものだ。
 志満が気になるのは、まつ自身についてであった。
 あの娘には何かがある。それは単に吉原の女郎屋の娘だとか、春霧楼の実の娘ではないとか、そんな些細な類ではなく、何かもっと別の問題だ。恐らくは、それがして、まつを敬資郎の求愛に応えさせない最大の原因なのではと、志満は見当をつけていた。
「おまっちゃん、若さまには早く帰るって言ったけど、門前で桜餅でも食べて帰りましょ」
 志満は殊更明るい声を出した。
 花見の最中も、まつは終始、空元気を装っているように見え、少し眼を離すと、何かの物想いに沈んでいるようであった。それは、春霧楼からの追っ手に怯えているだけには見えない―何かに心を囚われてしまっているようにも思えた。
 息継坂と呼ばれる階段の下には、小さな茶店がある。そこは耳の遠い老婆が一人でやっていて、随明寺名物の桜餅は一日限定何個と決まっているため、この時期は並ばないと替えないほどの超人気だ。
 あそこなら、誰にも話を聞かれずにまつと話ができるだろう。余計なお節介だとは承知しているが、若さまのためなら、ひと膚でもふた膚でも脱ぐ心意気でいる。何とか、まつから敬資郎の求愛に応えられない真の理由を聞き出せたなら。
 茶店から伸びた細い道がいわゆる門前道といわれるのだが、皮肉にも門前道と呼ばれる道傍には何軒か、連れ込み宿が軒を連ねていた。昼間でもなお、淫靡な雰囲気を醸し出すその宿は人眼を忍ぶ仲の男女が頻繁に利用しているという。時折、いかにも訳ありといった風体の二人組がひっそりと中に入ってゆくのを志満も何度か見かけたことがある。
「おまっちゃん?」
 志満は素っ頓狂な声を上げた。
 まつのか細い身体がユラリと揺らぎ、その場にくずおれたのだ。それは、さながら花が花弁ごと、ポトリと落ちる姿を連想させ、志満は慌てて自分の禍々しい考えを頭から追い出した。
「おまっちゃん、どうしたの、しっかりしなさい」
 志満はまつの細い身体を抱え、そっとその場に横たわらせた。幸いにも枝を張り巡らせた桜樹の下にいたので、助かった。まつが細身とはいえ、腰の弱い志満には、まつを支えて寝かせるのはひと苦労だ。まつの身体は見かけが儚げな割には、筋肉もついて、持ち重りがした。
 どうやら、まつは蒲柳の質らしい。
 まつ自身が身体が弱くて、よく立ちくらみや眩暈を起こすのだと言っていた。