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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の二

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「あの時、私は、そなたに理由を話したくないなら話さなくても良いと言った。さりながら、今は逆に知りたいと思うのだ」
 そなたの考えていること、そなたのすべてを知りたい。そう願うようになってしまった。
 敬資郎は、まつの眼を見ながら、呟くように言った。
 まつが口を開こうとする前に、彼は言った。
「多分、あの科白がその理由とやらなのであろう、まつ。何か厭なことがあったから、そなたはあの場所にいた」
 敬資郎は感慨深く述懐する。
「人の宿命とは実に摩訶不思議なものだ。そなたが厭なこと、辛いことがある度に行くというあの川のほとりで、私たちは二度、出逢った。逆に申せば、そなたがあそこに行かなければ、私たちも出逢うことはなかったろう。私はむしろ感謝したいくらいだ。そなたを私に出逢わせてくれた運命に」
 もし、人の世に真に運命というものがあるのならば。
 自分たちを引き合わせてくれたこの定めに心から礼を言いたい。
「そなたを好きになってしまったのだ」
 自分でも思いがけぬことだった。まさか、この場で想いを打ち明けるとは考えてすらいなかった。
「そんな。まさか―敬資郎さまが私なんかを」
 好きになるはずがない。
 そう続けようとした科白は、ふいにまつの唇を掠めた敬資郎の唇に遮られた。
 まつの華奢な身体が敬資郎の逞しい腕にすっぽりと包み込まれる。
「私の妻になってくれぬか、まつ」
 この時、敬資郎の心は、はっきりと決まった。天下人の地位を望むよりも、心から愛する女と共に寄り添い合い、平凡な人生を送ろう、と。
 将軍になれば、まつを娶ることは叶わなくなる。まつであれば、天下人の妻としての器は十分備えているとは思えるが、御台所とは何千という女たちがひしめく後宮、大奥の頂点に立つ高貴な女性である。その分、気苦労も多く、その肩には将軍同様、重い荷を背負うことになる。
 愛する女にそんな辛い想いはさせたくない。敬資郎自身は身分への拘りは一切ないが、女郎屋の娘を側室ならまだしも正室に迎えるのは至難の業に相違ない。
 すべてを考え合わせてみた時、まつを選ぶのなら、将軍職はきっぱりと諦めるしかないという結論が自ずと出るのだ。
 それで悔いはない。いっときは、母から分け与えられた生命を燃やし尽くすには、将軍となり天下万民のためにこの身を捧げるべきだと考えたこともあったけれど―。生命を燃やし真摯に生きるのは、何も将軍の位につかなくとも、ただ人としてもできることだ。市井にあっても、世のため人のためにできることはあるだろう。
 例えば、自分やまつのように親のない孤児を育てる―そんな施設を作ること。孤児院を作り、身寄りのない子どもたちの親となる。そんな生き方はどうだろう。
 その時、彼は腕の中のまつが震えていることに気付いた。
「どうした?」
 やわらかな頬を両手で挟んで無理に顔を上げさせると、彼の美しい想い人は泣いていた。
「何故、泣く? 私の想いがそなたには迷惑なのか?」
 いいえ、いいえ、と、まつが泣きじゃくった。
「私のような者に勿体ないお言葉、まつは嬉しうございます。いっそのこと、このまま息絶えてしまっても良いと重うほど、嬉しいのです。でも、私にはできません。敬資郎さまの奥さまにして頂くことはできないのです」
「何故? まつが私を嫌いでないというのなら、躊躇う理由はないはずだ」
「―どうか、お許し下さいませ。私には、敬資郎さまの妻にして頂けない理由があるのです」
 まつは肩を震わせて泣いていたが、その理由を明確にしなければ、到底、敬資郎が得心しないと思ったのだろう。
 諦めたかのように小さな息を吐き、消え入りそうな声で言った。
「私は幼い頃、生きるか死ぬかの大病を患いました。幸いにも一命は取り止めましたが、そのせいで、子をなすことができない身体となってしまったのです。ですから、敬資郎さまには嫁げないと申し上げました」
 敬資郎は首を振った。
「そのようなことは理由にはならぬ。子ができなければ、養子を迎えれば良い。まつ、私には夢があるのだ」
 彼はそう言って、孤児たちを集めて育てる―身寄りのない子どもたちが安心して暮らせ、また、将来に困らないように仕事や学問も学べる施設を作りたいのだと告げた。
 まつは大きな黒い瞳をまたたきもせずに彼の夢に聞き入っていた。
「そうなれば、たとえ実子がおらずとも、大勢の子どもが私たちにはできることになる。まつ、そのような人生があっても良いではないか。この国中に溢れている身寄りのない子どもたちの父と母になろう、なっ?」
 それでも、まつは首を振りながら涙を流し続ける。
「私は諦めぬぞ。そなたが受け容れてくれるまで、何年でも―たとえ百年でも待つ」
 敬資郎のどこかおどけたような物言いに、まつが涙をぬぐいながらも、かすかに笑った。
「それゆえ、今、このまま息絶えても良いなどと哀しいことを言うな。それほどに嬉しいのなら、私と一緒に生きて、ずっと私の傍にいてくれ、まつ」
 風もないのに、庭の八重桜が時折、はらはらと宙に舞う。
 その透き通るような白い花びらに春の陽が当たり、まるで光と花びらが戯れているかのように見える。
 今、この瞬間、愛する女を確かにこの腕に抱いているのに、敬資郎は得体の知れぬ不安を感じていた。この胸騒ぎは何なのだろう。
 まつは確かに自分を慕っている。
 それは男の独りよがりや自惚れではなかった。自分が何より誰よりまつを必要としているからこそ、また、まつも敬資郎を求めているのが判るのだ。
 心は敬資郎の許にあるのに、何故、まつは彼の妻になるのを頑なに拒もうとするのだろう。
 敬資郎は正体の判らない不安に暗澹としながら、あまりにも静かな春のひとときに身を委ねていた。

     月夜に散る花   
 
 その日は朝から穏やかな蒼空が江戸の町の上にひろがっていた。湖のように涯(はて)なく澄み渡った空に刷毛で刷いたようなちぎれ雲が所々に浮かんでいる他は一点の曇りもない。
 午前中、敬資郎はいつものように書見をして過ごした。途中で休憩したいと思ったほど良き頃合いに、丁度見計らったように志満が茶菓を運んでくるのは、もう日課のようなものである。
「若さま、少しお休みになられてはいかがにございますか?」
 よく気のつく女中は、敬資郎の心を読んでいるかのように、いつも姿を現すのだ。二人が男女の仲であったのかどうかは別として、父がこの女をずっと傍に置きたがるほど重宝していたのも得心できる。
「おう、もうそんな時間か。志満は真によく気が利くな」
 敬資郎が書物を閉じ、眼の疲れを癒やすために眉間を指先で軽く揉みほぐしていると、背後から志満の愉快そうな声が聞こえた。
「そのようなお世辞を仰せになっても、何も差し上げられませんよ? 若さま」
「そうなのか?」
 敬資郎は笑いながら、志満の差し出した丸盆から湯呑みを取った。熱くもなく、かといって温すぎもせず、程よい加減の茶がゆっくり口中にひろがり、喉をすべり落ちてゆく。
「なあ、志満。褒美をくれとは申さぬが、その代わりに一つだけ訊いても良いか?」
 ふと零れ落ちた言葉に、志満が細い眼をいっぱいに開いた。