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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の二

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「まあ、お珍しいこと。私のようなお婆ちゃんに一体、何をお訊ねになりたいのですか?」
「うん、まあな」
 敬資郎は曖昧に笑って、また絶妙の湯加減の茶を口に含む。ひと口めはほんのりと甘く、ふた口めからはぴりりとして。何の茶葉を使っているのか訊いたことはないが、志満の淹れる茶は最高に美味い。ほんわかとした包み込むような優しさを見せるのかと思えば、時には母のような厳しさを見せる。
 その味は、志満という女の人柄にも通ずるものがあった。
「志満は誰かに嫁ごうと考えたことはないのか?」
 その問いは、あまりにも唐突だったのだろう。志満は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になると、しばらくポカンとしていた。
「厭ですねえ。若さまは、年寄りをおからかいになるおつもりなのですか」
 ややあって、志満がころころと笑った。
「いや、断じてからかうつもりなどない。ただ、志満ほどの女が何ゆえ、誰にも嫁さず、我が家のような逼塞した屋敷に長年奉公する気になったのか、ふと問うてみたい気になったのだ」
 もしかしたら、それは志満にとっては触れて欲しくはない話題だったのかもしれない。あくまでも、志満が泰膳の寵愛を受けていたと仮定しての話にはなるが。
 志満はゆっくりと首を振った。
「若さまは私を買い被っていらっしゃるのですよ。私のようにさして器量も良くなくて、これといって取り柄のないおなごなぞ、進んで迎えて下さる殿方はいらっしゃらなかった、―ただそれだけの話です。行き場のない私に、こちらのお殿さまがずっとここにいて良いのだとおっしゃって下さったから、今もこうしてお仕えさせて頂いているんです」
 志満のお多福を思わせるふっくらとした顔には、相変わらず微笑が浮かんでいる。
「父上とそなたは―」
 敬資郎が言いかけるのに、志満がすかさず口を開いた。
「そのようなことは、どうでも良いではございませんか、若さま」
 志満の眼が〝これ以上、言わないでくれ〟と訴えている。敬資郎は続く言葉を呑み込んだ。
「世間の人はとかく様々なことを申しますゆえ」
 彼はその時、はっきりと悟った。やはり、噂は間違いではなかった。志満は父の寵愛を受けていた時期があったのだ。
 予測していたこととはいえ、やはり軽い衝撃ではあった。だが、志満の先刻の不自然な態度が何より隠された真実を語っている。
 志満が突然、立ち上がった。何をするのかと見ていたら、部屋の障子をすべて開け放っている。
 春の息吹を含んだ風が緩やかに流れ込んできた。 
 敬資郎の居室の前にも、桜が植わっている。こちらは、まつの部屋から見える華やかな八重とは違い、白いすっきりとした山桜だ。和泉橋のたもとの桜と同じ種類のものかもしれない。  
 ふと、彼は眼前のこのたおやかで慎ましげな桜が志満に似ていると思った。派手やかな八重桜がまつならば、このひそやかに咲く山桜は志満にこそふさわしい。
「志満、父上はそなたを後添いにとは仰せにならなかったのか?」
 と、志満はふわりと笑った。花がひっそりと綻ぶような笑みだった。
「或いは、そんなこともあったやもしれませぬ。殿は何よりもお優しく、けじめを重んじられる方におわしますから」
 やはり―、と、敬資郎は軽く瞠目する。
 泰膳はその場限りの欲情や恋情で女性を欲しいままにするような男ではない。泰膳は蟄居してからも長年の功ににより、年に三万石を幕府から与えられている。老中たちの中には
―稲葉さまは上さまのご勘気を蒙ったというのに、何故、年に三万石も支給されるという恩恵に浴するのだ?
 と、露骨に不快感を示す者もいるという。それは当然のことだ。泰膳の罪が公にされてはいないとはいえ、仮にも将軍の怒りを買って政界を去った者が後々までその恩恵を受け取るというのは前代未聞である。
 蟄居を命じられる前、泰膳は一国の大名として領地を与えられ、十五万石を領する身であった。そして、家連の逆鱗に触れ、確かに一旦は所領も官位も召し上げられ、幕閣からは去ったが、その待遇は依然として一国の大名並である。それはこの二十一年間、ずっと変わらなかった。
 それほどの立場の男であれば、当然、屋敷に側妾の一人や二人はいてもおかしくはないのに、泰膳は独り身を通している。政からは一切離れ、花鳥風月を愛で、書に親しんで悠々自適の日々を過ごしてきた。
 そんな男だから、志満をお手つきのまま放置しておくようなことは絶対にしないはずだ。気紛れで手を付けるようなことはしないだろうし、ひとたび寝所に召したなら、相応の処遇は与えるつもりで―妻に迎えるつもりであったろう。
 また一人の男として、愛しい女をいつまでも日陰の身にしておくのも忍びないに違いない。
 敬資郎が想いに浸っていると、志満の存外に明るい声が耳を打った。
「私の方からお断り申し上げました」
「―何故?」
 普通、志満の立場で主人から妻にと望まれれば、一、二もなく承諾するものではないか。
 母お郁が亡くなった時、既に泰膳は五十四、志満も三十後半に差しかかろうとしていた。志満がいつ頃から泰膳の夜伽を務めるようになったのかは知らないけれど、女が四十近くなって嫁ぐのは相当に難しい。それを、かつてお側用人を務め、今なお大名並の待遇を与えられている泰膳の正式な継室にと泰膳自ら望まれたのに、断る―?
 常識からすれば、考えられないことだ。
「花にも色々ございますでしょう、若さま。陽当たりの良い場所を好む花もあれば、裏腹に日陰の方が適している花もございます。殿は私に仰せになりました」
―ひとたび手折った花をそのまま棄ておけぬ、このまま日陰の身ではそなたが不憫じゃ。
 ゆえに、妻になれ、と。
 志満は束の間、遠い瞳になった。そのはるかなまなざしは庭の桜に向けられてはいても、桜を映してはいない。彼女の見ているのは、もうずっと昔、過ぎ去った過去の幻影なのだろう。
「私は私自身の意思でこの道を選びました。私は殿を心よりお慕いしておりますゆえ、立場には拘りませぬ。むしろ、陽当たりの良い場所よりも、遠くから殿のお幸せとご健康をお祈りし、日々心を込めてお仕えさせて頂く方が性にあっております」
 志満は晴れやかな表情で言い切った。もう、瞳はいつもの彼女らしく、生き生きとした光を取り戻している。
 敬資郎は、志満が泰膳を愛しているからこそ、身を退いたのだと理解した。志満は自分の分をわきまえ、幾ら望まれても泰膳の正室に自分では役不足だと断ったのだ。
「花にも様々ある、か」
 瞼に一人の少女の笑顔が浮かぶ。八重桜の花は昼間は可憐な乙女そのものだが、夜、闇に浮かぶその姿は男心を蕩かす妖婦のようでもある。
 敬資郎が志満の言葉をなぞると、志満は悪戯っぽい眼になった。
「おかしいですわねえ。色恋にはとんとご興味のおありでなかった若さまが何を唐突におっしゃるのかと思えば。さては、若さま。やっとご結婚なさるおつもりになったのですか?」
「う、煩い。私はお喋りな女は嫌いだ」
 敬資郎は柄にもなく、頬が火照るのを感じた。照れくささをごまかすように怒って見せる。