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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の二

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 庭の桜は今、八分咲きといったところであった。和泉橋のたもとにある桜とは品種が異なるらしく、あちらはすっきりとした形であるのに対して、この庭の桜はたっぷりと花弁をつけた八重である。色も幾分、薄紅色が濃いようだ。その花が無数に咲き誇っている様はまさに見事としかたとえようがない。小さな薄い花びらを幾重にも重ねた花は、まさに天の与え給うた奇蹟だ。
「敬資郎さま、これから私がお訊ねすることをお聞きになったら、さぞ愚かで浅はかな女だと軽蔑なさるでしょうね」
 敬資郎は突然の言葉に対して、破顔して見せた。
「それは聞いてみなければならないが、恐らく、そなたが心配するようなことはないと思うが?」
 まつは意を決したように敬資郎に向き直った。真摯な瞳が真正面から見つめている。
「何だ? そのように改まって」
「実は二つほど、お訊ねしたいことがあるのです」
「構わぬ。何なりと訊ねてくれ」
「半月前、再会した夜のことにございます。あの夜、敬資郎さまは深川の料亭からお屋敷にお帰りになる途中だと仰せでした」
「ああ、確かにそう申した。実際、そのとおりなのだからな」
 敬資郎が頷くと、まつは眼を伏せた。
「言いにくいのですが、敬資郎さまは料亭や―女人がいる場所にはよくお行きになるのですか?」
 〝女人のいる場所〟と曖昧な言い方をしているが、この場合、まつの言いたいのが岡場所とか吉原といった遊女、或いは芸者のいる遊廓だとはすぐに判った。
 吉原で育ち、しかも女郎屋の娘だというにも拘わらず、まつは随分と奥手というか恥ずかしがり屋らしい。だが、敬資郎はかえって、まつの世間ずれしておらぬところに好感を持てた。
「よく行く、と、申したら?」
 そう言ってから、敬資郎はしまったと思った。まつの眼に見る間に涙が盛り上がったからだ。
「そう、ですよね。敬資郎さまはもうご立派な大人なのですもの。殿方なら、当たり前のことにございます。私としたことが、ご無礼の段、お許し下さいませ」
 敬資郎は慌てた。
「待て、嘘だ。まつ。今のは真っ赤な嘘だ。この歳になって吉原にも行ったことがないなどと言えば、誰もが皆、女嫌いか病気持ちかと気味悪がる。まつにだとて、恥ずかしうて言えたものではない」
 焦るあまり、彼は更に墓穴を掘ることになる。
「実はだな、私の通う道場の先輩から妹御を嫁に貰ってくれぬかと頼まれたのだ。私自身、最初は何の話かも判らず、兄弟子について行った。たまたま、その先があの料亭であったというそれだけの話なのだ」
 その応えはあながち嘘ではなく、むしろ全く本当のことだった。最初は、まつを少しからかっただけなのだが、今にも泣きそうに眼を潤ませている少女に遊び半分の言葉だと言えたものではない。
「―お見合いだったのですか?」
 まつの瞳が大きく見開かれた。
「見合い? そんなたいそうなものではない。私は酒を呑みながら、先輩から妹御の話を聞いただけで、妹御当人は来てもいなかったのだから」
「それで―、そのお話はどうなったのですか?」
 敬資郎は何故、まつがそんな話にそこまで拘るのか皆目、見当がつかなかった。不審に思いながらも、はっきりと言った。
「むろん、断った。私はまだ当分は身を固めるつもりはない」
 これから自分の運命はどう転がるか知れない。将軍職拝命を承諾すれば、自分は第十代将軍となり、江戸城に棲まう身となるのだ。自分の妻となる女性は未来の御台所となる。
 自分は将軍の子として生まれたのだから致し方ないとしても、そのような運命の激変をおいそれと他の者に味合わせるわけにはゆかない。妻を迎えるのであれば、やはり、自分の気持ちにきちんと折り合いをつけてからでなければならないだろう。
 敬資郎は、まつの顔を覗き込んだ。
「これで良いか? それでは、二つめの質問を聞こう」
 まつは烈しくかぶりを振った。
「もう良いのです」
 見れば、白い頬が真っ赤に染まっている。
「私は恥ずかしいです。敬資郎さまがどなたとご結婚なさろうと、私には拘わりのないことなのに、色々とお訊きして」
 敬資郎は笑った。
「構わぬではないか。そなたが私のことを気にしていると知れば、私も嬉しい。さあ、二つめの質問を言ってくれ」
 まつは恥ずかしげに頬を染めながら、やっとの想いで口にしたようである。
「初めてお逢いした時、敬資郎さまは、私がどなたかに似ていると―」
 敬資郎は幾度も頷いた。
「確かに、そんなことを言ったな」
 彼は眼を細めて、まつを見やった。
「あれは、私の母だ」
 え、と、まつが意外なことを聞いたとでもいうように眼を瞠る。
 敬資郎は、まつに微笑みかけた。
「そなたが私の母に似ていると言った。母と申しても、いつかも話したように、真の母ではない。私を育ててくれた義理の母だ。血の繋がらぬ私を慈悲深く育てて下された慈母観音のような女性だ。美しい女(ひと)だった」
 敬資郎は降り注ぐ春の光に眼を細めた。
 記憶が巻き戻り、遠い日々が甦る。
「母が亡くなったのは、私が七歳のときだ。真夜中に刺客が忍び込み、母は刺客に斬られそうになった私を庇い、斬り殺された」
「―!」
 まつが息を呑んだ。ヒュッという小さな音が悲鳴のように聞こえる。
「まつ。私は今でもあの夜の惨劇を忘れたことがない。息絶えてもなお、私を腕にしっかりと抱きしめていた母の肩越しに三日月が見えていた。母の血が私の顔や着物にまで飛び散って―、それでも母は最後まで私を離そうとはしなかった」
「申し訳ございません!」
 まつが泣きながら首を振った。
「私が余計な詮索をしたばかりに、哀しい想い出を敬資郎さまに思い出させてしまいました。私ったら―、本当にごめんなさい」
 敬資郎は静かに微笑んだ。
「そなたが謝る必要はない。私は十四年前のあの夜、母から生命を貰った。今の自分の身体には、私自身が本来持っている生命と、あの日、母から譲られた母の生命も燃えている。だから、私は母の分まで―二人分の生命の焔を燃やして生きねばならない。私を生命がけて守ってくれた母に顔向けできるような人生を送り、母の分け与えてくれた生命を大切にせねばならぬと思うている」
 そう、いつの頃からか、彼はそう思うようになったのだ。哀しんでばかりいては、母は浮かばれまい。母が自らの生命を投げ打った意味を考え、その死をけして無駄ではなかったのだと敬資郎自らが思えるような生き方がしたいと願うようになったのだ。
 敬資郎は静かな瞳でまつを見た。
「今度は、私がそなたに訊ねたい」
 まつがハッと面を上げた。
 敬資郎は手を伸ばし、まつの頬を流れ落ちる涙の雫を手のひらでぬぐった。
「半月前、再会した日、そなたは私に言った」
―幼いときから、辛いことがあると、よくここに来るんです。いつここに来ても、この川は変わりなく流れているでしょう? 当たり前のことなのかもしれないけど、何だか、ホッとして。
 初めて出逢った夜、敬資郎は、まつに訊ねたはずだ。何故、若い娘が危険も顧みず、このような夜更けに一人で出歩くのかと。しかも、まつがいたあの界隈は昼間でも人通りのない淋しい道だった。