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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の二

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 まつが渾身の力で暴れる。武術で鍛え抜いた敬資郎には、その程度の抵抗は難なく封じ込められた。
「まつ、落ち着け、頼むから、私の話を落ち着いて聞いてくれぬか」
 敬資郎は腕に抱えたまつの背中を宥めるように撫でさすりながら、あやすような口調で語りかけた。
 辛抱強く言い聞かせている中に、まつは次第に落ち着きを取り戻した。
「そなたは自分一人で、ここまで来たのか?」
 敬資郎はまつを抱きかかえ、顔を覗き込むようにして一つ一つ順々に訊ねていった。
 まつがまだ震えながらも、小さく頷く。
「よし、良い子だ」
 敬資郎は、まつの頭を撫でてやり、また次の質問をした。
「女将に客を取らされそうになったんだろう?」
 その問いに、まつの顔がまた引きつった。
「あ―、私」
 そのときのことを思い出したのか、まつの身体ががくがくと震え出す。
「私―、見世の若い衆に奥の座敷に閉じ込められたんです。何が何だか判らない中に扇屋の―若旦那が突然、入ってきて」
 そこまで言うと、まつは両手で顔を覆った。
「敬資郎さま、怖い。駿太郞さんが来る、怖い、助けて」
 敬資郎は込み上げる怒りを抑えた。
 一体、まつの身に何があったのか。人がここまで怯えるなんて、尋常ではない。厭がるまつを何とか我が物にしようと執拗に追い回したに違いない。
 あの卑劣漢が―!!
 敬資郎は怒りに震えながら、行き場のない感情を鎮めるようと大きな吐息を吐いた。
「ここへ来るまでにさんざん怖い想いをしたのだろうが、先刻も申したように、この屋敷に来たからには、そなたには誰にも指一本触れさせぬ。それゆえ、安心するが良い」  
 まつは漸く安堵したかのように小さく頷くと、気を失った。どうやって春霧楼を抜け出したのかは判らないが、生命からがら逃げてきたことだけは判った。
 敬資郎は、眼を閉じるまつの顔を見つめる。
 白い頬には幾筋もの涙の跡が刻まれていた。その右頬には打たれたのか、痣のようなものまであった。
―許せぬ。
 敬資郎は、くっきりと残された蒼アザを愛おしむかのように撫でた。
 たとえ意のままにならぬからといって、惚れた女を殴ってまで我が物にしようとするその心が解せない。
 長い睫が濃い翳を落としたその面は、まだいたいけな少女のものだ。だが、そこだけ艶やかな真紅の椿を思わせるふっくらとした唇は、甘い蜜を含み男を誘い、口づけをねだるようだ。この少女を前にすれば、どのような朴念仁でも堕ちない男はいないだろう。
 しかし、その美しさがどれほどこの少女に苛酷な宿命を強いることになるのか。
 まつ、お前のことは私が絶対に守る。
 このきれいな澄んだ瞳をけして涙で曇らせたりはしない。
 まるで、そこに扇屋駿太郞がいるとでもいうかのように、彼は強い覚悟を宿した瞳で宙を睨み据えた。

 落ち着きを取り戻してゆくにつれ、まつがこの屋敷に来た夜の状況が明らかになった。
 敬資郎が考えたように、扇屋駿太郞は、まつを手籠めにしようとして躍起になったようだ。厭がるまつを脅したり宥めたりしながら何とかその身体を自分のものにしようと試みたが、まつがいっかな靡く風がなく、苛立つあまり殴ったらしい。
 まつをひそかに逃したのは、姉女郎だった。春風というその女郎とまつは日頃から実の姉妹のように仲好かったという。
 駿太郞が途中で厠に立ったのを見計らい、春風がまつを手引きして春霧楼から逃してやったのだ。
 しかし、その後、春風がどうなったか―、まつはしきりに心配したが、敬資郎は容易に想像がついた。脚抜けした女郎は酷い折檻を受けるのが習いだが、それを手引きした者もまた相応の罰を受けるのは当然のことだ。
 狡猾な女将は、ついに駿太郞をまつの初めての客に決めたのである。その裏には、駿太郞が五十両という水揚げ料としては破格の大金を積んだこともあった。
 敬資郎はまつには内緒で手を回し、ひそかに春霧楼のその後のなりゆきを調べさせた。その結果、春風は若い衆(廓の用心棒)から酷い折檻をさんざん受けた後、布団部屋に押し込められた。その数日後、息を引き取ったという。
 そのような残酷な春風の最後をどうしてまつに伝えられるだろう?
 敬資郎は、まつには春風は無事だと告げた。もっとも、何もなかったと言えば、かえって嘘だとバレる。廓で育ったまつは、誰よりも吉原の容赦なさを知っているはずだ。仮にも脚抜けを手伝った春風がそのまま何事もなく済むはずがないと判っている。
 ゆえに、春風は折檻を受けたものの、生命に別状のある怪我は負っていない。怪我も次第に快方に向かっている―と、いかにもそれらしい話をでっち上げた。春風の身を真剣に案じるまつに嘘をつく罪悪感はあったものの、真実を話したところで、春風が生き返るわけでもなく、まつが苦しむだけだ。
 まつが稲葉の屋敷に来て四日が過ぎた。
 その朝、敬資郎はまつの部屋を訪ねた。まつは奥向きの一室を与えられ、そこで起居している。
 そっと脚音を忍ばせて近づいても、まつは訪(おとな)いに気付く風もなく、ただ庭に茫漠とした視線を投げているだけだ。
 敬資郎はちょっとした悪戯心を起こし、背後からまつの眼を大きな手のひらで覆った。
「―誰?」
 初め、まつは少し愕いたように身を捩ったが、すぐに悪戯の主が誰であるかを悟ったようだ。くすくす笑いながら、敬資郎の手のひらに小さな手を重ねた。
「敬資郎さまにございますね?」
 敬資郎もまた笑いながら、手を放した。
「何だ、つまらぬ。早速、バレてしまったか」
 と、彼は自分の手のひらが濡れていることに初めて気付いた。
「まつ、泣いていたのか?」
 そこで、まつがハッとしたように眼を見開いた。
「い、いいえ。泣いてなどおりませぬ」
 慌てて手のひらで頬をこするその仕種がまた何とも愛らしい。
 敬資郎は思わずまつを抱きしめたくなったが、その衝動を辛うじて抑えた。何より、まつに嫌われたくない。それでなくとも、まつは四日前、扇屋駿太郞に手籠めにされかけたばかりで、心に癒えない痛手を追っている。
 自分もまた駿太郞のような自制心のない獣のような男だと、まつに思われるのは厭なのだ。
「敬資郎さま。姉さんは今頃、どうしているのでしょうか? 本当に大丈夫なのでしょうか?」
 やはり、まつは自分を逃してくれた姉女郎の身を案じているのだ。
 敬資郎は頷いた。
「昨日も申したではないか。春風は傷も次第に快方に向かっていると」
 優しいまつを騙している後ろめたさに、心がつきりと痛む。
 まつは首を心もち傾け、空を振り仰いだ。
 まつの部屋からは奥庭の一部が見渡せる。卯月の初めとて、部屋の障子はすべて開け放し、二人の座る縁側からは庭が臨めた。
 少し離れた前方に桜の樹が植わっている。真っすぐに降り注ぐ春の陽光を緑の葉が弾き、風が吹き抜ける度に、地面に落ちた影がちらちらと揺れる。