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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の二

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 安堵させるように、幼子にするように背中を軽く叩くと、漸くまつの身体が力が抜けた。
「私の両親も実の親ではない。それでも、私を愛情深く育てて下さった」
「そう―だったのですか?」
 流石にまつも愕きを隠せない様子だ。
「不思議なものだな。この世には大勢の人がごまんといて、その中には一生涯出逢わない人もいるというのに、私たちはこうしてめぐり逢った。その上、互いの身の上も怖ろしく似ている」
「不思議なご縁ですね」
 まつも感じ入ったように素直に頷いている。
 敬資郎はつと顔を仰のけた。
 大きな桜樹はまだ、ちらほらと薄紅色の花をつけただけだ。十六夜の月が銀色に妖しく輝き、わずかに咲いた花をひそやかに照らし出している。
 あたかも月の光が人の形を取ったかのように可憐でありながら、成熟した女の色香を匂わせる不思議な娘、まつ。
 知れば知るほどに、この娘に惹かれてゆく。
 敬資郎はまつを腕に抱きながら、妖しく銀色に輝く桜花をいつまでも眺めていた。

     忍び寄る影
 
 それから半月ほど経ったある夜。
 敬資郎は居室で書見をしていた。だが、眼は字を追っているのに、内容は全く頭に入ってこない。
 折角、父に無理を言って大切な蔵書を貸して貰ったのに、一向に書見に集中できない。その原因は判っている。
 ―まつの存在だ。何をしていても、ふと気が付けば、まつのことばかりしか頭にない。最近では道場で弟弟子たちに稽古をつけてやっている最中でも、ぼんやり心ここにあらずといった体だ。そのせいで、師匠の奥平(おくだいら)平(へい)助(すけ)から怒鳴られっ放しだ。
 実は、今日も道場を休んだのは、それがあった。昨日、瀬川新悟と打ち合いをしていて、うかうかと何本も取られてしまった。平素の敬資郎からは思い及ばない失態であった。
―愚か者ッ。何に現を抜かしておるのか知らんが、二、三日、顔を見せんで良い。自宅で謹慎しとれ。
 平助に大音声でやり込められてしまった。
 帰り際、新悟が片眼を瞑り、〝色男は辛いな〟と揶揄するように耳打ちしてきた。
 敬資郎は溜息をつき、本を閉じた。
 うーんと伸びをすると、そのまま畳に引っ繰り返る。
 と、襖の向こうから遠慮がちな声がかかった。
「若さま、見慣れぬ町娘が来て、若さまにお目通りしたいと申しておりますが、いかが致しましょうか?」
 そのときもまたボウとしてしまって、返事をなかなか返さなかった。
 将軍の逆鱗に触れて蟄居して以来、泰膳は多くの使用人に暇を出した。現在も屋敷にいるのは中間一人、下男一人、女中が一人だ。しかもそのうちの中間と女中は還暦を過ぎた泰膳とさして変わらないほど老いている。
 五十を越えたばかりの女中の志満は、母お郁亡き後は代わりに屋敷内のことをすべて抜かりなく取り仕切ってきた。まだ幼かった敬資郎も夜、母恋しさに眠れぬ夜は志満の寝床に潜り込んたことも度々あった。
 この志満と泰膳が男女の仲であった―とは、当時まだ屋敷には他に数人の奉公人がいて、彼等が口にした口さがない噂であった。
 母が亡くなった後であれば、泰膳も五十代半ば、志満はまだ三十五、六の若さであったはずだ。お郁は志満を誰より信頼し重宝がって傍に置いていたゆえ、泰膳と志満が顔を合わせる機会は多かっただろう。
 志満は美人というよりは、ふっくらとした女性らしい優しい顔立ちで、性格も容貌そのままによく気の付く細やかな気配りのできる女であった。志満に父の手が付いていた―とは考えたくもないが、父もまた男であり、志満ほどの女であれば、ついということもあったかもしれない。志満の優しさは、妻を喪ったばかりの傷心の泰然を癒やしたに違いない。
 確かに、現在の二人の様子は長年、連れ添った夫婦に見えないこともない。
―殿、そのようにまたご飯をお食べ散らかしになって。それでは、まるで幼い子のようでございますわ。
 甲斐甲斐しく食事の給仕をしながら、目ざとく泰膳の口の端についた米粒を摘む志満の姿は、主人に仕える奉公人というよりは、良人に対する妻の態度に見えた。
 そんな光景を目の当たりにする度、もしや噂は真実であったのかもしれないと思う。
 いずれにせよ、もう遠い昔のことだ。志満がいてくれたお陰で、この屋敷は女主人を失っても何とかやってゆけた。志満はあるときは敬資郎にとっては母親代わりでもあり、父にとっては妻代わりだったのかもしれない。
 だとすれば、志満に感謝こそすれ、自分が不平を抱く筋合いはないではないか。
「若さま、どうなさいます? 追い返しますか」
 いつもはおっとりとした志満の声に、流石に焦れたようなものが混じっている。
 ぼんやりとしていた敬資郎は慌てた。
「い、いや。どうかしたか?」
 と、志満は露骨に呆れたような顔になった。
「この頃、若さまは少し妙なご様子でいらっしゃいますこと。いつもお心ここにあらずといった体で、どうなされたものやら」
 志満は敬資郎の耳許に口を近づけた。
「見慣れぬ町娘が若さまに逢いたいと訪ねてきております。それが―」
 更に声を潜ませる。
「それが、その娘の様子が尋常ではないのです」
 そのひと言に、敬資郎は飛び起き、娘が待つという部屋に案内させた。
 娘は奥まった小さな座敷に通されていた。そこは、使用人が外から訪ねてきた客と対面するときに使われていた部屋だった。もっとも、使用人が三人しかいないこの状況では、現在は全く使われていない。
 敬資郎は、志満の機転に心から感謝した。
「まつ!」
 やはり予想したとおり、訪ねてきたという娘は、まつであった。志満の言うとおり、まつの姿は普通ではなかった。まる猟犬に追われる野兎のように始終、周囲を窺うかのようにおどおどと落ち着きなく周囲を見回している。かと思えば、突如として烈しい怯えを宿した瞳で、幼児が厭々をするように首を振り、泣きじゃくるのだ。
 何より、敬資郎を驚愕させたのは、まつの身なりであった。鮮血を思わせる緋色の肌襦袢を纏ったまつの胸許はしどけなくくつろげられ、前結びになった帯は緩んでいた。あまり考えたくもないことだが、まつが何者かに乱暴されそうになったことは間違いなさそうだった。
 敬資郎の脳裡に、半年前のあの夜の出来事、次いで、半月前に再会したまつの言葉がありありと甦る。
―養母から客を取るようにと言われています。扇屋の若旦那が熱心に水揚げに名乗りを上げるので、養母はかなりその気にになっているようなのです。
 駿太郞にしつこく絡まれていたまつ。養母である春霧楼の女将から客を取るようにと迫られていると哀しげに瞳を潤ませていた姿が忘れられない。
「まつ」
 敬資郎が手を差しのべようとすると、まつがピクリと身を震わせた。まるで自分を襲おうとするのが、眼の前の彼であるとでもいうかのように。
「あっ、こ、来ないで」
「まつ、どうした、私だ。敬資郎だ。怖い目に遭ったのだな。だが、もう安心して良い。ここには、そなたに害をなすものは誰もおらぬ」
 優しく言い諭すように言っても、まつは怯えた瞳をまたたかせるだけだ。
「まつ」
 敬資郎はたまらず、まつを抱き寄せた。
「い、いやっ、離して。私に触らないで」